阿比留鋭三郎(一) | またしちのブログ

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阿比留鋭三郎(あびる えいさぶろう)は浪士組に参加し、江戸帰東には従わず芹沢鴨、近藤勇らと京に残留した壬生浪士組結成メンバーの一人です。

 

 

 

 

残念ながら間もなく大病を患い、文久三年(1863)四月六日、京に到着(同年二月二十三日)してからわずか一ヶ月半ほどで死んでしまいました。天保十三年(1842)生まれとする説があり、享年は二十二歳とされています。

 

さて、その阿比留鋭三郎に関して、実は二つばかり気になることがあります。・・・あくまで「気になったこと」なので、あまり期待せずに読んでいただきたいのですが。

 

 

 

まず、一つ目が壬生寺に立つ墓です。

 

 

 

この墓碑銘は、ずいぶん昔から「阿比原榮三良」と書いてあるんだと言われてきましたが、僕はどうも納得いかなかったんです。これは「原」じゃないんじゃないかと。

 

 

 

 

むしろ「尓」(「に」もしくは「じ」)に近いというか、「欠」のかんむり部分の下に「小」なんですが、これを「原」と読むのはどうしても納得出来ません。いや、他の漢字もくずし字や略字的に書かれているのならばまだしも、ご覧のとおり、この字以外はちゃんと分かりやすくハッキリと書いて、というか彫ってあります。

 

では、この漢字が「原」ではないとしたら、一体なんという漢字なのか。調べてみたらわりと簡単に答えが出ました。まあ、異議のある方もいらっしゃるかも知れませんが・・・。

 

実はこの漢字、そのまんま「留」だと思います。つまりは「留」のくずし字です。ただ、おそらく書き損ねだと思われます。

 

「留」のくずし字のうち、かなり崩した書き方の例が以下になります。

 

 

 

「り」の下に「つ」、「つ」の中に「小」を入れたような感じですね。これの「り」、つまり上のチョンチョンをカットするとこうなります。

 

 

 

 

まさに「欠」の上部分の下(というかこの場合は中ですが)に「小」と書いてあるように見えませんか?

 

推察するに墓を建立するにあたり、新選組側で作成した名簿の「阿比留」の字が雑だった、もしくは見事すぎ、本来あるべき「上のチョンチョン」が読みとれなかったか何かで、墓石職人が「留」と読めずに、仕方ないから「なんて書いてあるのか分からないから、とにかく書いてあるとおりに彫った」、というのが真相なのではないかと思うんですが、いかがでしょう。

 

もちろん、「読めなかったら聞けばいいだろ」と言われれば、たしかにそのとおりなんですが、職人さん、きっと怖くて聞けなかったんでしょう。なにしろ、相手は鬼より怖い新選組ですから。

 

笑い話みたいですが、案外そういうことだったんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。

 

 

・・・ちょっと長くなるようなので、二つめの気になる点は次回に持ち越しとさせていただきます。