追分お侠 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

追分お侠は幕末期に活躍した女侠客ですが、実に謎の多い人物でもあります。

 

生まれ年は文政年間のはじめ(1820年)頃だと言われていますが、本人がそう口にした訳ではなく、傍から見てそれぐらいの年に見える、たぶんそれぐらいの年齢だろうということだったようです。いや、そもそも本人が自分の生まれた年を知らなかったのかも知れません。当時、貧しい家に生まれたり、他家に養子に出されるなどして生みの親に育てられなかったような子ならば、そういうことは別に珍しくもなかったはずです。

 

同様に出身地についても他人に語ったことは生涯一度もなく、ただ東北訛りがかすかにあるようだから、仙台あたりの出なのではないかと噂されたようです。

 

しかし追分(街道の分岐点のこと)という異名から考えると、奥州ならば羽州街道と奥州街道とを分かつ桑折追分(こおりおいわけ。現・福島県伊達郡桑折町)があり、あるいはこの桑折村の出なのではないかと思われます。

 

伊達郡桑折村は幕府の天領で仙台藩領とも近く、また文政年間以後度重なる凶作に大いに苦しんだところでもあるので、物心つくかつかないかの時に親元を離れ国を捨てねばならなくなったとしても不思議ではありません。天領であったことから、江戸に出てくる伝手も何かしらあったことでしょう。

 

 

 

 

 

お侠は一生を男装で押し通したといわれています。胸の膨らみはサラシを巻いてごまかしていましたが、どうやら結構 “ご立派” だったようで、胸が不自然に盛り上がってしまっているのでごまかし切れなかったといいます。

 

また、剣は馬庭念流免許皆伝の腕前で、並の男たちではまるで歯が立たなかったといわれています。度胸も男勝りで、ある時、浅草観音(浅草寺)の境内で、若い旗本二人が通せ通さぬで大いに揉めて刀を抜かんばかりであったのを、見かねたお侠が一人で仲裁に入って事を収めたというので、ずいぶん評判になったそうです。

 

一方その容姿はというと、男か女か見分けがつかなかったとか、口元にうっすらヒゲが生えていたとかの言い伝えもあって、それに絡んでひとつこんな話が残っています。

 

調布の小金井小次郎一家の厄介になっていた時のこと、お侠の姿を見た小金井一家の子分衆が「あの客人は男か女か」で賭けをしました。酒をしこたま飲ませた上で連れションに誘い、立ってすれば男、しゃがめば女に違いないと定めて酒を飲ませたところが、お侠は背筋をピンと伸ばして見事に立ってしてみせたとか、いやそうではなくて、お侠があんまりにも底なしの左党なので、子分衆の方がみな潰れてしまって正体はわからずじまいだったともいわれています。

 

いやいや、てやんでい待ちやがれ(笑)。当のご本人が「おきょう」さんだと自ら名乗っているのに、男じゃなかろうかとは「どんだけぇ~」な話です。あるいはお侠があんまり強くて男勝りだというのでこんな話が広まってしまったのかも知れません。それに、どうせ謎の多い人物というならば、「男女(おとこおんな)だ」「ヒゲが生えてやがる」と噂されてたのが、実際現れてみれば色香漂ういなせな美女だったという方が話としては面白いじゃありませんか。

 

そんなお侠ですが、利根川をはさんで上州とは国境の武州幡羅郡(はたらぐん)女沼(めぬま)村(現・埼玉県熊谷市妻沼)で祭礼賭博を巡っての縄張り争いの出入りに、どこぞの親分に加勢して挑んだのが運の尽き。深手を負い、仲間に担がれて医者に運ばれたものの、胸をざっくりと斬られたのが致命傷となって八日目に息を引き取ったといいます。女侠客が女沼で死んだというのも、何だか因縁じみています。

 

四十をいくらか過ぎたかのようだったというので、文久・元治、あるいは慶応の頃の話でしょうか。相手方にも手疵を負った者がよほどいたようですが、これが全部お侠に斬られた連中だというので、どうやら相手もお侠の強さを知っていて、寄ってたかってお侠一人に攻めかけたようです。

 

ちなみに看取った医者のいうことには、乳がおぼこのように固いので、あるいは生涯男を知らなかったんじゃないかというのですが、それを含めて思うに、あるいはお侠、実は武家の息女だったのではないかと思えてなりません。

 

というのも、たとえば馬庭念流は身分を問わず、農民や侠客さえ弟子にとっていましたが、とはいえ免許皆伝ともなれば、師匠の元に何年も通い詰めなければなれるものではないというのが剣の道の決まり事です。こればっかりはヤクザや無宿人には到底出来ない相談です。

 

また、故郷と目される桑折村は伊達郡を治める陣屋のあったところ。陣屋に勤める下役人の娘が、折りからの凶作もあって江戸の旗本屋敷に奉公に出されるというのはじゅうぶんあり得る話だと思われます。お転婆娘だったのでしょう。あるいは幼い頃から剣の道を志していたのでしょうか、江戸へ向かう道中逃げ出して、あれやこれやと苦労を重ねるうちにヤクザ渡世に身を投じることになったのではなかったかと思えるのです。

 

そんなお侠が、調布の小次郎親分の客人だった頃に、一家に草鞋を脱ぎかけていた石田村のバラガキ歳三を「アンタはヤクザにゃ向かないよ。お侍にでもなるんだね」と諭して追い返した・・・なんて作り話も、お侠ならば似合いそうです。

 

 

 

※.参考文献『日本侠客100選』(今川徳三/昭和46年)