松林伯知(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

『幕府名士近藤勇』(明治30年)、『新撰組十勇士伝』(明治31年)で新選組の名を世間に紹介した講釈師松林伯知(しょうりん はくち)は本名を柘植正一郎といい、安政三年(1856)に生まれ、昭和7年(1932)に亡くなりました。77歳で亡くなったことになるでしょうか。

 

残念ながら生い立ちや家族などについては全くわかりませんが、明治期に講談ブームを巻き起こし、講談界の権威と讃えられた二代目松林伯圓(しょうりん はくえん)の弟子の一人(※)で、伯知自身も「講釈の大家」と称されるほどの人気を誇りました。

 

兄弟弟子の松林伯養とは神田五軒町の日本亭の真打(トリ)を隔日でつとめ、師匠の後継者の座を激しく争っていましたが、伯養が名を右圓と改めた頃から人気実力ともに伯知を上回るようになり、最終的には右圓が三代目伯圓の名跡を引き継ぐことになります。

 

しかし、その三代目が他の演芸との連携、今風に言えばコラボを画策して、これが見事に大ゴケし、松林一門は離散没落してしまいました。伯知については、国立国会図書館デジタルコレクションを見るかぎり大正10年までは活動していたようですが、その晩年についてはよくわかっていません。

 

伯知は東京市京橋区日吉町二番地(現・中央区銀座8丁目)に居住していましたが、師匠の二代目伯圓も同じ京橋区に住んでおり、師匠の屋敷に住み込んでいたか、あるいは近隣にあらたに家を構えたのかも知れません。

 

また、伯知は松林のほかに猫遊軒(びょうゆうけん/みょうゆうけん)という屋号を用いていましたが、これはおそらく自宅に12匹もの猫を飼っていた猫好きの師匠にちなんだものだと思われます。

 

その師匠は、右圓に伯圓の名を譲ったのちに横浜に隠棲しています。また、伯知には猫遊軒小伯知、新伯知という弟子がいましたが、彼らが息子だったのか、あるいは赤の他人だったのかは不明です。

 

 

 

※.松林伯知。明治44年刊『豊臣秀頼』(松林伯知著。国立国会図書館デジタルコレクション)より転載。

 

 

※.『当世名家蓄音機』(明治33年)収録の「松林伯圓」に、講釈師は師匠の技をそっくりそのまま引き継ぐので、同じ座に師弟が出ればどうしても弟子は見劣りする。そこで弟子の伯知などが「師匠、ここは心を変えて寄席にでも出なすったらよろしかろう」と勧めたとある。