土佐の狂犬(十五)文久三年五月二十一日 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

『勤王殉国事蹟』収録の、実弟豊永貫一郎が書いた履歴によれば、豊永伊佐馬は『維新土佐勤王史』などにいう文久三年七月四日ではなく、同年の五月二十一日に殺されたことになっています。

 

貫一郎自身は、この時にはまだ土佐にいました。つまりは事件の経緯を知る誰かが、土佐に帰って来たのちに豊永家を訪ね、「伊佐馬は文久三年五月二十一日に斬られて死んだ。相手は新選組だ」と貫一郎に報せたのだと思われます。

 

実は、この前日の五月二十日にある事件が起きています。それは姉小路公知の暗殺事件です。つまり豊永伊佐馬は姉小路公知が殺害された翌日に斬られたことになるのですが、このことに関連して、僕はあることを思い出しました。それはこの年に京の町で起きた、日時不詳のある事件です。

 

その事件については、当事者だった人物が後年こういう談話を残しています。

 

 

文久三年の三月に家茂公が御上洛なさるについて、その頃京都は実に物騒で、いやしくも多少議論のある人はことごとくここへ集まっていたのだから、将軍もなかなか厳重に警戒しておられた。

 

この時俺も船でもって上京したけれど、宿屋がどこもかしこも塞がっているので、致し方なしにその夜は市中を歩いていたら、ちょうど寺町通りで三人の壮士がいきなり俺の前へあらわれて、ものをも言わずに斬りつけた。

 

驚いて俺はうしろへ避けたところが、俺のそばにいた土州の岡田以蔵がたちまち長刀を引き抜いて、一人の壮士を真っ二つに斬った。

 

「弱虫どもが何をするか」と一喝したので、あとの二人はその勢いに辟易して何処ともなく逃げて行った。俺もやっとのことで虎の口をのがれたが、なにぶん岡田の早業には感心したよ。

(勝海舟『氷川清話』より)

 

 

「人斬り以蔵」こと岡田以蔵が勝海舟の護衛をしたという、幕末史が好きなら、おそらくはほとんどの人が知っているであろう事件です。

 

この事件、「文久三年の三月に~」とあることから三月に起こったものと考えがちかも知れませんが、『海舟日記』(『海舟全集』収録)をみると、勝自身は三月から四月中はずっと大坂におり、さらに五月十日に大阪城に登城していることと、その後、十九日に「松平肥後守に謁す」とあること(※)から、勝の上京は、この五月十日から十九日の間の出来事であったと考えられます。

 

そして、豊永伊佐馬が斬られた翌日(五月二十二日)に、土佐脱藩の浪士で伊佐馬が兄事していた吉村寅太郎が勝に面会に訪れ、さらにその翌二十三日には「京師殺伐の風聞、昨夕同所(大坂)へ聞こえ」、大坂にいた勝の門下生4人が上京し、勝のもとにやって来ています。おそらく勝の身を案じて飛んで来たのでしょう。

 

勝海舟自身『海舟日記』の二十一日の記述には、ただ姉小路公知殺害を惜しむ言葉しか書かれていないのですが、これらの事象を考慮すると、勝海舟が暴漢に襲われ、岡田以蔵がそのうちの一人を「真っ二つ」に斬って撃退したのは、まさに五月二十一日の夜であった可能性が高いと思われるのです。

 

・・・つまり、豊永伊佐馬を斬ったのは新選組ではなく、同じ土佐の脱藩浪士岡田以蔵。

 

 

 

※.この五月十日から十九日までの間、日記はつけられていない。