新選組 浅野薫(7)やさしい狼 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

この三条制札事件で、土佐側では藤崎吉五郎が討ち死にし、リーダーの宮川助五郎が新選組に捕えられましたが、残りの6人(安藤鎌次、松嶋和助、澤田屯兵衛、岡山禎六、本川安太郎、中山鎌太郎)は新選組の包囲を脱して、なんとか四条河原町の土佐藩邸へと逃げ込みました。

 

新選組の側にしてみれば、8人中6人に逃げられてしまった事になりますが、その事を踏まえて新選組のその後の行動を見てみると、いささか不可解な点があります。

 

三条橋東にいる人が川向かいにて戦い、ついに一人生け捕り致す。速やかに駕籠に乗せ局へ引き揚げる。 ~『浪士文久報国記事』

 

私は恐いもの見たさで、もとより小僧の風体をしていますし、さしつかえあるまいと先斗町頭から大橋の方へ曲がろうとすると、角のところに大石が積んである、その石に腰かけた六、七人の侍が「どこへ行く」と咎めますから、「女将さんが産気づきましたから産婆さんを迎えに」と言って橋のところまで来てみると、西詰北側の、ただ今料理屋になっているところが制札場です。そこにも四、五人立っている。 ~『鹿野安兵衛談話』

 

まだ6人も逃げているというのに、1人捕まえただけでなんで局へ引き揚げてしまったのでしょう。まだ6人も逃げているというのに、10~12人の隊士たちは追跡も捜索もせずになんで休んでいたのでしょう。相手が土佐の人間だという事は事前に予想出来ていたのだから、土佐藩邸の周囲を彼らが捜索していれば、一網打尽に出来た可能性もあったはずです。

 

更には峰吉と大橋慎三がいた瓢屋に逃げ込んで来た「竹野」を思い出して下さい。耳を斬られて血まみれになって先斗町の瓢屋に逃げ込んだわけですが、この瓢屋は、三条大橋西詰からせいぜい200mほどしか離れていません。まして手負い、しかも先斗町は狭い一本道です。追いかけて捕縛するのは造作もない事だったはずです。仮にその場で捕まえられなくても、一軒一軒家探ししても、瓢屋にたどり着くまでさほど時間はかからなかったはずですが、峰吉の証言を読むかぎり、新選組が家探しを行なった様子はありません。

 

 

狭くてほぼ一直線の先斗町

 

 

どうも新選組は、はじめから追うつもりがなかったのではないか、と思えてなりません。現場から逃げ出した者は追わずに見逃すようにと、はじめから指示されていたのではないでしょうか。

 

その理由は容易に推察する事が出来ます。何しろ第二次長州征伐の敗戦直後に起こった事件です。第二次長州征伐は、幕府が長州藩に負けたという事も衝撃でしたが、長年幕府に協力していた薩摩藩が突然裏切った事の方が、むしろそれ以上の衝撃的だったのではないかと思われます。

 

そして、そこへ来ての土佐藩士が起こした事件です。土佐藩は依然として佐幕派として踏ん張ってはいたものの、下級藩士や脱藩者の多くは反幕府、もしくは倒幕派として早くから活動しており、その点では薩摩よりもよほど厄介な相手でした。会津藩が「土佐を必要以上に刺激したくない」と思うのは、当時の情勢を考えれば、むしろ当然の話ではないでしょうか。だとすれば、1人だけを討ち取り、リーダーの宮川助五郎だけを生け捕りにしたという新選組の働きは、実は望まれる最良の結果だったという事になりそうです。

 

幕府の威厳を示すために取り締まりはするが、それはあくまで制札場周辺の「現場」での話で、逃げた者は追わない、その事で土佐に少しでも恩を与え、味方に引き止めておきたい・・・、だとすればなおさら浅野薫が卑怯者呼ばわりされる筋合いはないわけで、事情を知らない隊士たちのうわさ話を元に、西村兼文が憶測で浅野薫を卑怯者に仕立て上げたというのが、真相なのかも知れません。

 

 

さて、少し話がそれますが、この三条制札事件で生き残った6人の土佐藩士のうち、宮川助五郎、松嶋和助、本川安太郎をのぞく3人は、事件後間もなく改名したようです。『維新土佐勤王史』などからわかる、その名前は以下のようになります。

 

澤田屯兵衛 → 藤沢潤之助

岡山禎六 → 竹野虎太

中山鎌太郎 → 山脇太郎

 

実は、彼ら三条制札事件の生き残り6人のうち、リーダーだった宮川助五郎をのぞく5人は、翌慶応三年十二月七日、油小路花屋町の天満屋で、再び新選組と刃を交える事になるのです()。更には坂本・中岡を殺したのは新選組だと信じて疑わない土佐藩士たちの断行によって、近藤勇は江戸・板橋に散る事になります。文字通り恩が仇となって帰ってきたのです。

 

 

.詳しくはこちら → 「天満屋騒動(8)刺客団起つ」