新選組 浅野薫(5)三条制札事件の冤罪 その一(訂正) | またしちのブログ

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『壬生浪士始末記』(西村兼文)によれば、慶応二年九月十二日夜、浅野薫は斥候役として、橋本会助とともに乞食に扮して三条大橋の下にいたといいます。

 

そして新井忠雄率いる12人は橋の西詰の北側、高瀬川東入るところの酒屋に、原田左之助率いる12人は同じく橋の西詰の南側、先斗町の町会所に、大石鍬次郎ら10人は橋の東詰に待機していたところ、子の刻(午後11~午前1時)に、それぞれ身軽な出で立ちの土佐藩士たちが鴨川の河原を南から上って来て、浅野らの前を通って制札場にのぼって行き、くだんの制札を引き抜こうとしたのです。

 

ちなみに同じく『始末記』では、その土佐藩士というのは宮川助五郎、藤崎吉五郎、松嶋和助、澤田甚兵衛、安藤鎌治、岡山禎六、早川安太郎、中山謙太郎の8名としていますが、土佐藩側の史料等と照らし合わせてみたところ、

 

宮川助五郎

藤崎吉五郎

松嶋和助

澤田甚兵衛

安藤鎌次

岡山禎六

本川安太郎

中山鎌太郎

 

が正しいようです。

 

そして、橋本会助はすぐさま西側に待機する新井忠雄および原田左之助の隊に報せたのに反し、浅野薫は彼等の背後をすり抜けるのを怖れ、橋の下の川を渡って川向うに待機する大石鍬次郎らに報せに行ったため、大石らの出動が「いささか遅れたり」としています。

 

一方、橋西詰の南側にあった町会所に待機していた原田左之助は、橋本の報せを受けるより前に南側からやって来た土佐藩士たちに気づき、そのあとをつけ、彼らが制札を引き抜くやいなや、ただちに戦闘となったとします。

 

もともと、制札を引き抜いてやろうというだけで、戦う気はなかったという土佐藩士たちは西へ逃れようとしましたが、そこへ新井忠雄の隊も駆けつけ、「高瀬通(高瀬川=木屋町通)三条の南車道」で斬り合いとなり、原田と伊藤浪之助の二人が藤崎吉五郎を討ち果たし、新井と今井祐次郎が宮川助五郎に重傷を負わせて召し捕りました。

 

衆寡敵せずと察した他の者は「東の方車道(川東の川端通か)へと逃れようとしたところ、待ち構えていた「橋本の一手」、つまり東詰の町家で待機していた大石鍬次郎らの迎撃を受けました。安藤鎌次が自ら殿となって新選組を引きつけ、三方に敵を受けて討ち死にし、その間に残る土佐藩士たちは南北に散って逃走したと『壬生浪士始末記』は伝えています。

 

つまり、戦闘が行われたのは実は三条大橋ではなく、橋の西側の木屋町通周辺での原田・新井隊との戦闘と、その戦闘から逃れた土佐藩士たちが橋を渡って来たところを、東側に詰めていた大石らと戦闘になった、橋の東西の二ヶ所だった、という事になります。

 

『壬生浪士始末記』は新選組という組織の始まりから終わりまでを綴った、文字通りの「始末記」ではありますが、その内容は、言うなれば「新選組はこんな悪い連中でした。こんな風に悪いことばかりしていました」という視点で描かれていて、決して新選組を賛辞するものではありません。が、ことこの三条制札事件に関しては新選組側の働きが良い点も悪い点も実に詳細に描かれています。

 

文中に、当事者の一人、新井忠雄から直接話しを聞いたと思わせる一節(「後日新井の話に、土藩はいずれも例の長剣を真っ向に振りかざし、月光に輝き馳せ来たる形勢は鬼神も避くべき有威なりしと云えり」)とも書かれている事から、いかにも信憑性が高いと思いがちですが、実はこれら『壬生浪士始末記』の記述に疑問を持たざるを得ない証言を残している人物がいます。

 

その人物とは、土佐藩士との関係が深く、のちの近江屋事件で直前まで坂本龍馬と一緒にいながら、その龍馬から軍鶏を買ってくるように頼まれたために一命を取り止める事となった菊屋峰吉です。

 

峰吉は、のちに家業をついで鹿野安兵衛と名乗りましたが、大正五年に高知出身の漢学者・川田瑞穂のインタビューを受け、当日の様子を語っています(『鹿野安兵衛談話』東京大学史料編纂所データベース)。『始末記』との相違点をはじめ、大変興味深いので、長くなりますが以下に紹介したいと思います。

 

『鹿野安兵衛談話』(大正五年十一月二十三日および二十七日聴取)※要点のみ抜粋。( )は特記のないかぎり僕です。

 

この当時、宮川(助五郎)氏は木屋町三条下ル二丁目瓢(ひさご)屋という醤油屋に下宿していました。ちょうど慶応二年九月十二日の夜、私は私の家に下宿していた大橋慎三(土佐陸援隊副長)と一緒に散歩に出まして、図らず四条小橋で宮川、藤崎、安藤、竹野、松嶋、山脇などという連中七、八人と出会いました。

 

どこへ行くのかと問うと、「三条大橋の制札を壊しに行く」といいます。この前にもすでに一、二度やっております。

 

大橋氏が「そんな真似はよせ。先方も警戒しておるから危険じゃ」と強いて止めましたので、「それなら廃してすぐ帰る」と縄手通(1)を北へ上りましたから、私と大橋氏は木屋町通を北へ瓢屋へ来て、待っていました。

 

すると間もなく橋の方でパチパチパチッという太刀音がする。制札場と瓢屋とは一町ばかりの距離ですからよく聞こえます。「ハハアやったなァ」と言っていると、けたたましく瓢屋の戸を叩く者がある。開けて見ると竹野が片耳斬られて血だらけになって来たのです。

 

土州屋敷にいた坊主医者川村エイシンを呼んで応急手当をしましたが、とうとう片耳は聾になってしまいました。

 

竹野が「制札を下ろしたところへ伏勢が起って来て囲まれた。一人二人はやられたかも知れぬ」と言うから、私は恐いもの見たさで、もとより小僧の風体をしていますし、さしつかえあるまいと、先斗町頭から大橋の方へ曲がろうとすると、角のところに大石が積んである、その石に腰かけた六、七人の侍が「どこへ行く」と咎(とが)めますから、「女将さんが産気づきましたから、産婆さんを迎えに」と言って橋のところまで来てみると、西詰北側の、ただ今料理屋になっているところが制札場です。そこにも四、五人立っている。

 

斬り合いはもうとうに済んでいます。私は橋を東に渡って南に下り、京阪電車の起点となっている、その車路から河原へ下り、西に向かって(2)やって来ると誰か一人斃れている。

 

月明かりに透かして見ると藤崎です。コレはしまった、せめて大小でも記念に土州屋敷へ持って行こうと、サッと短刀を抜き取り、大刀は鞘に納めて引っ担いだまま、大急ぎで先斗町の裏手へはい上がり、うしろを振り返ってみると、コハ如何に藤崎の死骸を肩に引っかけてソロソロとこの方へやって来る者がある。

 

敵か味方かと身を潜ませて見ていると、やはり土州人で名はちょっと忘れましたが岡崎(川田瑞穂注・山三郎か)という人です。そこで私も手伝って、とりあえず裏寺町の西通寺へ担ぎ込み、明日まで預かってくれと無理に頼んで、翌日ここで仮葬をいたし、のちに霊山へ移したのです。

 

安藤は土州屋敷へ入りましたが、色々議論があって翌日切腹しました。他の連中もそのままにしておいては切腹せねばならぬか知れぬ、早く脱走さすが良いという大橋氏の意見で、私が使者となって勧告に参り、みな脱走させてしまいました。

 

 

1.縄手通=鴨川東側の大和大路通のうち、三条から四条にかけての区間の名称。ただし、この証言を見るかぎり、川沿いの川端通と誤解しているのではないかと思われます(本来「縄手通」は土手沿いの道の意味)。また、西側の土手沿いの道は先斗町通になるので、こういう言い方はあり得ません。

 

2.河原へ下り、西=言うまでもありませんが、南北に流れる鴨川の東側の河原を西に向かって進むと川の中に入ってしまいます。この場合は河原へ下りて左側、つまり実際は南側の意味だと思われます。

 

 

 

これを読むと、『壬生浪士始末記』との相違点がいくつもあることがわかります。特に重要な点として次の4点を挙げたいと思います。

 

1.土佐藩士たちは縄手通り、つまり橋の東側から橋を渡って制札場にやって来た。

2.宮川らは大橋慎三から「先方も警戒しているから危険」と警告されながらも敢えて決行した(戦う覚悟がなかったとは思えない)。

3.藤崎吉五郎は鴨川東岸の河原(現在の京阪三条駅のやや南)で息を引き取っていた。

4.安藤鎌次は土佐藩邸まで逃げ延びたあと切腹した。

 

つまり、西側の橋下にいた浅野薫よりも先に、東側に詰めていた大石らの前を土佐藩士たちは通っていた事になります。また、藤崎吉五郎の死亡した場所が川の西と東と、大きく異なっています。これらを峰吉の記憶違いとするのは、かえって無理があると思われます。

 

位置関係がわかるように地図を作ってみました。事件と直接関係はないが重要と思われる場所も図中に示しておきます。

 

 

三条制札事件マップ

 

A:藤崎吉五郎死亡地

B:瓢屋:宮川助五郎下宿。峰吉・大橋戦闘の様子を聞く。竹野逃げ込む

C:菊屋:峰吉の家。大橋慎三下宿

D:古高俊太郎邸跡

E:池田屋

F:酢屋。海援隊本部

(制札場裏):新井忠雄

(先斗町):原田左之助

(橋東詰):大石鍬次郎

 

ちなみに、本当の縄手通は川端通のひとつ東側になります。町家に囲まれた通りであり、わざわざここを通る意味がないように思われます。

 

訂正:地図にある鴨川東岸の通りは縄手通で間違いありません。僕の勘違いでした。申し訳ありません。どうやら川端通は維新後に出来たものらしく、当時の地図にはないようですね。つまり土佐藩士たちは町家の中の縄手通を北に行き、三条大橋に向かったことになります。

 

菊屋峰吉