新選組 浅野薫(4) 三条制札事件 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

元治元年(1864)七月、禁門の変の勝利を受け、幕府は京の制札場に長州を非難する制札を掲示しました。

 

一、元来長藩人、名を勤王に託し、種々の手段を設け人心を惑わし候ゆえ、信用致し居り候者もこれ有り候えども、禁闕に発砲の逆罪明白にて、追討仰せ付けられ候。

 

もし信用致し居り候者、前非を悔い改心候者は、御宥免相成るべく候間、申し出るべく候。且つ潜伏落人等見当たり候はば、早速に申し出候はば、御褒美下さるべく候。もし隠し置き他より顕れ候はば、朝敵同罪たるべき事。

 

 ~元来長州藩士は、名を勤王に託し、あらゆる手段をもって人心を惑わしていたので、(長州を)信用していた者もいたようだが、禁闕(きんけつ=皇居)に発砲した逆罪(※1)であることは明白であり、追討令が発せられた。

 

もし(長州を)信用していた者でも、前非を悔い、改心した者は罪を許すので申し出ること。また、潜伏している落ち人などを見つけたならば、すぐに通報すれば御褒美が下される。もし、匿ったことが他人の通報により露見すれば、朝敵と同様の罪となる。

 

 

この制札はその後も掲示され続けていましたが、第二次長州征伐さなかの慶応二年八月二十九日、土佐陸援隊所属の十津川郷士・中井庄五郎、前岡力雄らが札に書かれた文字を墨で塗りつぶしたうえ、鴨川の河原に投げ捨てるという暴挙に出ました。

 

三日後の九月二日、幕府と長州藩は停戦に合意し、第二次長州征伐は事実上の失敗に終わりましたが、幕府は再び長州非難の制札を作り直し、三条大橋西詰の制札場に掲げ直しました。しかし、これもわずか二日後の九月四日に何者かによって投げ捨てられてしまいました。

 

幕府方は、やむなく再度制札を作り直し、三条大橋の制札場に掲げ直すとともに、その監視と犯人の捕縛を新選組に命じました。その一方で、犯人は土佐人だという噂を元に、会津藩は土佐藩京都留守居役の諏訪騰吉を呼び出して話し合いの席を持ちました。

 

すると諏訪の方から「軽輩の内にも、とかく異論を生み候者まま有り、困り入り候次第」であるから「少しも斟酌(※2)なく御召し捕り下され候よう」、つまり「土佐に気を使う必要はないので、遠慮なく召し捕って下さい」と申し出がありました。(『会津藩庁記録』)

 

 

これを受けて新選組は、三条大橋制札場の周辺に隊士を配備して警戒に当たります。『壬生浪士始末記』(西村兼文)によると

 

新撰組三方に隊を配附して、一手は橋の東詰なる町家に潜み、また一手は高瀬(川)東に入る酒屋に忍び、また一手は橋南先斗町の町会所を下宿として、隊士二人に菰を着せ、橋下より窺わしむ。

 

 

そして同月十二日夜のことです。この夜斥候役となり乞食に扮していたのは新参隊士の橋本会助と、(少なくとも)一時は副長助勤を勤めたはずの古参隊士・浅野薫の二人だったと『始末記』は伝えます。

 

二人が制札場の近くに座っていると、土佐の宮川助五郎らが南側からやって来て、柵に登り、制札を引き抜こうとしました。橋本会助はすぐに彼等の背後をすり抜け、高瀬川東の酒屋と先斗町の会所に待機していた隊に通報しますが、浅野は「怖れて橋を通行せず、河原中を東詰に距たるゆえ、ほか二ヶ所にいささかおくれたり」と『始末記』はいいます。

 

そして、このために東詰の隊の行動が遅れ、それがために多くの土佐藩士を逃す結果になてしまい、浅野は卑怯者と呼ばれるようになり、隊を放逐されたというのです。

 

しかし、調べてみると、この話はどうもおかしいのです。次回は、浅野薫の冤罪を晴らしてやりたいと思います。

 

 

※.土佐藩士を怖れて浅野が渡った?三條橋下の川中。

 

※1逆罪=主君や親に対する殺傷罪。江戸時代にはもっとも重い罪とされた。

※2.斟酌=しんしゃく。相手を気遣って遠慮すること。状況を踏まえて手加減すること。