姥が餅屋旧跡 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

先日、滋賀県草津市の姥(うば)が餅屋跡を訪ねて来ました。

 

姥が餅屋の跡は、南草津駅の東口を出て、ひとつめの大通りを左(北)側に進み、すぐに現れる矢倉前交差点の三叉路の左側の細い道(旧東海道)を進むと着きます。徒歩でだいたい15分ほどでしょうか。

 

その名の通り「姥が餅」が名物の店でしたが、昭和13年に廃業してしまったらしく、現在、同地には瓢箪(ひょうたん)専門店(らしい)瓢泉堂さんが営業しておられます。

 

 

 

 

文久二年九月二十三日、江戸へ向かっていた京都町奉行所与力・渡邉金三郎および同心・大河原十蔵、上田助之丞、森孫六の命を狙うべく、土佐・長州・薩摩の連合刺客団・約三十名が京を発ち、そのあとを追いましたが、彼らが集結場所としたのが草津宿の南・矢橋(やばせ)村にあった茶店でした。

 

 

 

※.安藤広重『東海道五十三次』(保永堂版)より草津「名物立場」

 

 

「立場(たてば)」とは、宿場町と宿場町の間にある、茶店などの旅人が歩を休めるための休憩施設のことで、矢橋村の茶店では名物の姥(うば)が餅が有名でした。

 

また、この茶店は上図で正面を横切る東海道と、画面右奥に進む矢橋道(やばせみち)との分岐点でもありました。

 

上の絵の茶店の端、矢橋道の入り口にある道標は現存していて、瓢泉堂さんの玄関先に立っています。

 

矢橋道入り口の道標。「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ舩わたし」と刻まれています。

 

京へと向う旅人は、この矢橋村の分岐が、このまま東海道を瀬田へと歩いて向かうか、矢橋道を通って矢橋の渡しから舟に乗って大津へと向うかの、思案の分かれ目でもありました。

 

矢橋の渡しから舟に乗った方が近道になるし、何しろ舟なのでしばらく歩かずに済むのですが、風雨が強い日や、逆に風のない日などは舟が出ない事もあり

 

瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか ここが思案の姥が餅

 

武士(もののふ)の 矢橋の舟は早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋

 

などと当時の歌に詠まれました。特に「急がば回れ」の格言は、この歌がそもそもの語源となっています。

 

 

※.安藤広重『東海道五十三次』(隷書版)より「矢橋の渡し口 琵琶湖風景」

 

 

『傍観漫録秘抄』(戌九月二十三日石部宿殺害一件掛り合之もの申立書)より「矢橋村 姥ケ餅にて」

 

昨暁六時頃、表明け候処、士体之者八人参り、内一人、小休にて出足。二人程無く連れ之もの参り候に付き、待ち合い候趣申し居られ候処、尚又十人計り、何れの海道より参られ候哉分らず候、然る処、前二人之もの小声にて何か申談、直に参られ候右十人之もの、支度致し申し居り候には、待ち合いもの四十人計り罷り越す様申し居られ候。

 

 ~昨日(九月二十三日)暁六つ時(午前6時)頃、店を開けた(もしくは表が明るくなった)ところ、侍風の者が8人やって来て、そのうちの1人が少し休んだあとすぐに出立しました。ほどなく2人連れの者がやって来て、「ここで待ち合わせをするから」と話していました。

 

なおまた10人ばかりが、どの道からかはわかりませんが、やって来ました。そして、先に来た2人は小声で何かを話し合っていました。すぐに来た10人の者が食事をしつつ話していたことには、待ち合わせの者は(全部で)40人ばかりになるだろうという事でした。

 

同史料によると、この茶店に集合した刺客団が、となりの草津宿に姿を表したのは四つ時(午前10時)頃だったといいます。しかし、矢橋村から草津宿までは徒歩で15分もあれば着く距離です。

 

つまり、彼らは4時間近くを矢橋村の茶店で過ごしていただろうという事になります。

 

 

 

そんなに長い時間とどまっていたのなら、当然ながら名物の姥が餅を食べたことでしょう。石部宿の天誅事件に参加したとされる、人斬りの田中新兵衛や岡田以蔵、あるいは久坂玄瑞らがきっと食べたであろう姥が餅は、その後、別の店(うばがもちや)が商標権を買い取って伝統の味を守り、現在も製造販売され続けています。

 

 

 

 

こんな小粒のあんころもちを、これから人殺しに行こうかという刺客たちが大勢して食べていたというのも、何とも奇妙な光景ですね。

 

その「うばがもちや」さんは、草津駅前にも店舗を構えています。

 

 

 

余談ながら彼ら刺客団は、石部宿で渡邉金三郎以下を殺害した帰途に、矢橋の船乗り場で食事をとっていた事が前記史料にて確認出来ます。

 

『傍観漫録秘抄』(戌九月二十三日石部宿殺害一件掛り合之もの申立書)より「矢橋村乗船場之調」

 

士十三人、早船屋へ立ち寄り、右之内膳飯にて支度致し、その外之ものは油紙より握り飯取り出し、氷魚かまほこの類、相求め支度致し候。(中略)その余二十三人、乗船直ぐ様握り飯出し喰いよし。

 

 ~侍13人が早船屋へ立ち寄り、その中で御膳の飯を食べました。その他の者は(それぞれ)油紙に包んだ握り飯を取り出し、氷魚(ひうお)のかまぼこなどを買い求めて食べていました。(中略)その他の23人は舟に乗ると、すぐさま握り飯を取り出して食べていました。
 

 

氷魚(ひうお)は琵琶湖の名物で、鮎の稚魚です。まるで氷のように透き通ったその体から「氷魚」の名がついたそうですが、残念ながら現在は乱獲などの理由により、鮎の数が減少して高級魚となっており、琵琶湖の鮎は絶滅が危惧されているそうです。

 

日本全国の養殖鮎や、各地で行われている鮎の放流なども、実は琵琶湖の鮎が利用されているのだそうで、今後が心配ですね。

 

 

オマケ

 

 

 

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