山南敬助(3)平戸藩士 山南茂次衛門 ~その2 | またしちのブログ

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最初に訂正を。前回の記事で山南茂次衛門の生年に関して、「明治十年(1877)に71歳で亡くなっているので文化三年(1801)生まれ」だなんて書いてしまいましたが、言うまでもなく1877-71=1806でして、西暦では1806年でした(文化三年である事は間違いありません)。

つまり天保四年(1833)もしくは天保七年(1837)生まれとされる山南敬助より27ないし30歳上という事になります。小学校低学年並みの単純な計算ミス、というか文化三年は合ってるんだから書き込んだ時に何か思い違いをしてしまっていたようですね。ごめんなさい。くもん行かなきゃ(笑)



さて、山南茂次衛門は平戸藩江戸留守居役・志自岐十郎左衛門の家来、つまり元々は平戸藩士ではなく陪臣だったという事になります。しかし、のちに出世して藩士に取り立てられるのです。ただし「一世士族」。つまり、茂次衛門は藩士として取り立ててやるが、次の代はそうとはかぎらないよ、というわけです。

天保九年(1838)五月二十三日 江戸中小性
安政二年(1855)十一月十四日 馬廻役 
慶応三年(1867)十月二十五日 御徒士小頭役
 ~『格禄勤役記』(慶応四年)


そして藩士となった茂次衛門に対し、本国平戸への帰国命令が出ます。万延元年(1860)九月十日の事でした。ちなみに、土方歳三の義兄にして日野宿名主・佐藤彦五郎の日記に山南敬助の名前が突然あらわれるのは、その4ヶ月後の万延二年(1861)一月十四日の事です。

(万延二年一月)十四日 天気
一、近藤勇、門人沖田惣次郎外壱人、山南啓助〆四人、来泊。
 ~『佐藤彦五郎日記』


ちなみに万延二年は二月十九日より文久に改元されています。
 

さて、これはあくまでも僕の考えなのですが、先祖代々江戸に生まれ育ち、また江戸留守居役の下役人として、公私共に他藩の士との交流が少なからずあったであろう茂次衛門に、もしも・・・もしも、山南敬助のような文武両道に秀でていて、父親である自分より明らかに優秀な自慢の息子がいて、しかも、既にある雄藩の重役か何かから「御子息を我が剣術の指南役に迎えたい。その際は我が藩の藩士として取り立てるつもりだ」などという、またとない出世話が舞い込んで来ていて、本人もそれを熱望していた・・・

としたら、父茂次衛門は、それでも我が子を九州の田舎の片隅に連れて帰って、再び陪臣身分からリスタートさせる道を選んだでしょうか。それとも、山南の名を世間に広めてくれるよう、廃嫡してでも敢えて江戸に残す道を選んだでしょうか。


茂次衛門は慶応四年までに「門」をとって茂次衛(もじえ)と名を改め、明治十年に71歳で死去しています。そして、そのあとを山南要作という人が継ぐのですが、この要作は昭和十一年に77歳で死去している事から、逆算して文久元年(=万延二年。1861)生まれという事になります。

つまりは茂次衛門と要作が実の親子だとすると、要作は茂次衛門が55歳の時の子という事になります。無論あり得ない話ではありませんが、当時の一般的な結婚年齢などを考えると、一世代分の空白があるようにも思えます。当時とすれば、むしろ祖父と孫の年齢差に近い。

ちなみに、山南敬助は天保四年(1833)もしくは天保七年(1836)生まれ。要作とは25ないし28歳差という事になります。つまり山南茂次衛門と山南敬助は27ないし30歳差、山南敬助と山南要作は25ないし28歳差・・・・・・・・・。

 

なんか、まるで測ったかのようにピッタリだ・・・。先ほどの「もしも」の話の続きですが、更に、もしも既に子息の奥方が身籠っていて、仮に息子をひとり江戸に残したとしても、平戸藩山南家の世継ぎは確保されている、としたら・・・・・・・・・・・・。なんだか、すごい事になりそうな。



平戸市大志々伎にある山南家墓所

 

・・・の、きれいな画像はこちら  山南家墓所