新選組 加納惣三郎(1)前髪の惣三郎 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

ちょうど初夏のころである。試合をする者は待つあいだも面をとらせない規定だったため、どの男も刺子(さしこ)が水をあびたように汗で濡れ、肩で息をしている者が多い。

 

ところがひとり、どういう工夫があるのか汗もかかない男がいた。

 

小柄である。面鉄(めんがね)の裏に珍しく青漆をぬり、胴はみごとな黒うるしで、違柏(ちがいかしわ)の定紋を金で打ち、稽古衣だけでなく、袴も白、それが折り目もくずれずにすらりと穿いている。面をかぶっているために顔はみえないが、挙措動作、匂うようにみごとな男だった。

 

それが強い。

 ~『新選組血風録』(司馬遼太郎)「前髪の惣三郎」より。

 

『新選組血風録』の一編「前髪の惣三郎」は、男色をテーマとした異色の作品です。大島渚監督の映画『御法度』の原作としても知られています。

 

その作品のインパクトの強さから、僕は加納惣三郎という人物を司馬遼太郎の創作だと思い込んでいたのですが、実はそうではなかったという事実を、恥ずかしながらつい最近知りました。ただし、加納惣三郎の名が確認出来る新選組の隊士名簿などは、今のところ一切みつかっていません。

 

 

加納惣三郎に関しては、実は『新選組血風録』以前にも「実在の人物」としていくつかの書物に取り上げられていたといいます。その中のひとつが、実は先日来たびたび取り上げている『維新史跡図説』(大正13年/吉田喜太郎)なのです。

 

さて、『新選組血風録』ではその美貌ゆえに、その気(け)のある隊士たちに言い寄られ、その道の深みに嵌って遂には我が身を滅ぼすことになる加納惣三郎ですが、『維新史跡図説』に描かれている『血風録』以前の加納惣三郎像は、実は微妙にちがうものでした。

 

 

京洛の街に猛威をたくましうしていた新選組の中には色々の人が加盟しておった。優しい京男も二、三人、その荒くれ男に立ち交じって、佐幕の実をあげていたのである。

 

加納惣三郎もその一人であって、惣三郎は押小路の木綿問屋越前屋の次男であったが、算盤をはじくのが大嫌いで武張ったことが何よりも好き。幼少の頃から竹刀を持って近所の道場に通い、一生懸命に稽古していた甲斐あって、数年後には師匠の代稽古を申し付けられ、その後は好んで浪士の群れに入り、ついには新選組に加入し、隊努見習いとして隊長の秘書役に採用せられたが・・・

 ~『維新史跡図説』より「加納惣三郎」

 

 

前髪も取れぬ十八歳にして、すぐに小頭格(副長助勤?)に抜擢された惣三郎ですが、やがて遊郭通いの楽しさを覚え、輪違屋の錦木太夫とは夫婦の約束を交わすまで入れ込んでしまいます。

 

近藤局長にたびたび注意されたものの、聞く耳を持たずに島原通いを続けた結果、ついには金を使い果たし、それでも錦木太夫に会いたい惣三郎は、夜な夜な島原田圃に出て裕福そうな客を殺害してはその金を奪うようになります。

 

たびたび起こる辻斬りのせいで、島原に足を向ける客は少なくなってしまいました。新選組は犯人探しに乗り出しますが、調べてみればあろうことか、犯人は同志の加納惣三郎。

 

近藤は現場を押さえるべく田代某という腕利きの隊士を島原に向かわせますが、その田代は加納惣三郎の前に返り討ちに合ってしまいます。

 

そこで今度は屯所へ戻って来たところを討ち果たそうと、土方歳三が数名の隊士を連れて待ち伏せ、ついに惣三郎を討ち取るのです。

 

今牛若の異名をとりながら、恋に狂ったあげくに悲壮な最期を遂げた十八歳の美少年剣士加納惣三郎の話は、大正の世になっても島原の語り草となっていたという事です。