『維新史蹟図説』と赤報隊 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

『維新史蹟図説』(維新史蹟会編/大正13年/東山書房)の中で個人的にひときわ興味深かったのが赤報隊に関する記事です。

 

戊辰正月五日、官軍は連戦連勝に乗じ、東海道を平定することになり、橋本実梁卿を東海道鎮撫総督に、柳原前光を副総督に任じ、これが参謀には木梨精一郎が命ぜられ、まず桑名征伐に向かうに決し、正副総督、参謀は三井寺に赴き陣貝を吹き鳴らして軍兵を募集し、声に応じて来会する者約三千名、橋本総督は直ぐに全員を整列せしめて左の軍令三章を定め、嚮導は亀山の兵、先鋒には大村、備前、佐土原、彦根、水口、膳所諸藩の兵、本陣には因州の兵承り、桑名に向かって進撃せんとした。

 

一、王師の向かう所、草之に伏せるの意を体し、首尾軽率あるべからざる事
一、戦士はその長官の令を受け、長官はその大将の令を受け、更に異議あるべからざる事
一、私に賊徒に応接し、或は方略を暴白する事、最も心得あるべき事
右の條々堅く相守るべく、違背これあるに於いては厳法に処すべき事

 

この時突然にも一大事件が出来した。滋野井公寿、綾小路俊実の両卿は自ら関東征討の先鋒に当たると称し、浪士山本太宰、小笠原大和等と共に赤報隊を編成して、兵士を各地より募り、東海道各藩の大名を訪い、濫りに金穀を徴発し、官軍の体面を毀損すること大であった。

 

 

ここでいう赤報隊はあきらかに滋野井隊の事です。現在では赤報隊と言えば「相楽総三の隊」というイメージが強いのですが、長谷川伸の『相楽総三とその同志』が世に出る前のこの『維新史蹟図説』では、相楽総三も御陵衛士も、その存在は無視されています。

 

以前にもお話しましたが、僕自身も赤報隊の本隊は滋野井隊の方であったと思っています。だからこそ東海道鎮撫総督府にちゃんと出頭したのですが、それがゆえに山本太宰と小笠原大和の二人の参謀は、美濃方面に突出した相楽総三や御陵衛士を含む綾小路隊の分まで責任を取らされて斬首刑に処されてしまったのではないかと思うのです。

 

総督府としては、それで丸く収めようと思ったのでしょうが、血気盛んな草莽の志士たちには全くの逆効果であったというのが、赤報隊の事実だったのではないでしょうか。

 

それにしても、祖父の汚名を晴らしたいという木村亀太郎の思いが作家長谷川伸の心を動かし、その結果、赤報隊という忘れられかけた草莽隊のイメージがガラリと一変したわけですから、その熱意は大いに報われたと言うべきでしょうが、そのために逆に忘れられかけている人々がいるというのも皮肉な話です。