天満屋ちょっとした騒動(3) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

明治維新後の天満屋について、『維新の史蹟』(大阪毎日新聞京都支局編/昭和14年/星野書店)に以下の記述があります。

 

この天満屋騒動について町の古老、油小路花屋町角菓子商・羽田増吉氏(72)は語る。

 

「何しろ(事件は)私達の生まれる以前のことですが、七つ八つのころ、その天満屋へ遊びに行った記憶があります。そのころ大人の人から、世にいう天満屋騒動のあったことをしばしば聞かされていましたが、なにぶん古い話で、詳しいことは覚えておりません。しかし私達の遊びに行った時分には2階建ての家で、「○天」の大きい印が入った屋根看板が掲げてあり、表の入り口に旗の掲揚台があって、天の字を染め抜いた旗が毎日あげてありました」

 

また天満屋の主人は小畑佐平という人で、世間からは天満屋佐平と呼ばれていた。明治十年その息子栄次郎が家を売却し他へ移住。その後、天満屋の建物は真宗信徒保険会社の事務所になっていたが、その会社が他の保険会社と合同することになって他へ移転。

 

 

 

その後柴田某という大工が買って住んでいたこともあったが、家が広すぎるからと三軒の家に分けるように改造し、さらにそのうち二軒は新築され、他の一軒も三階建てに改造、二階の表だけが辛うじて昔の姿をそのままに伝えているとは、同町内の物知りの語り草である。しかし石碑すら建ててないので、この史蹟の所在地は、いつかは湮滅(いんめつ=跡形もなく消え去ること)するに違いない。

 

 

『維新の史蹟』より、三分割されたのち三階建てに改造された旧天満屋。

 

 

これを読むかぎり、「中井庄五郎殉難之石碑」は少なくともこの本が発刊された昭和14年当時にはまだ建っていなかった事になります。これはいよいよ「本当は隣の美好園が天満屋跡」説が現実味を帯びてきそうではありませんか。

 

真相を確かめようと現地に行ってみました。すると幸運な事に美好園の向かいで古くから雑穀卸商を営む店のご隠居さんと、やはりこの近所で生まれ育ったという老婦人がたまたま立ち話をされていたのに遭遇、なにかご存じないかと声をかけてみました。

 

「すみません。実は幕末の歴史に興味がありまして」

「はいはい」

「あの、新選組の天満屋事件・・・」

「ああ、あそこ。あのマンションのとこですわ。あそこに石碑が立ってまっしゃろ」

 

おふたかたに、「あのマンションのとこ」と声を揃えて即答されてしまいました。

 

「え、やっぱり石碑のところなんですか」

「そうですわ。あそこ、今はマンション建ってますけど、私らが小さい頃にはあそこに三階建ての家が建ってましたんや。それが天満屋ですわ」

「・・・ただですね、事件当時の絵図面みたいなのが残されてまして、それを見るとこちらの美好園さんのお家が天満屋によく似ているんですよ」

「そりゃ、昔の京都の店言うたら、みんなこんなんですわ(笑)」

「・・・・・・・・・あとですね、中庭が・・・」

「いやいや、昔はこの通りの家、みんな中庭ありましたもん(笑)」

 

なんだかもう、ジャブを打っても打ってもカウンターパンチで返されるような(笑)。グーの音も出ずに撃沈されてしまいました。何しろ、こちらからは一切触れていない、この三階建ての家の事をここで生まれ育ったというご隠居さんの方から口にされて、しかも「あのマンションのところにあったのをこの目で見た」と断言されてしまったら反論の余地はありません。

 

『維新の史蹟』にあるように、実際はこの三階建てを含めた三軒がかつての天満屋だった事になりますが、この三階建てがその中の北側だったのか、真ん中か、それとも南側だったのかが残念ながらわからないため具体的な範囲は残念ながら確定出来ません。が、もし真ん中だったとしたら、その両隣(北隣の美好園さんの事務所?と南隣のマンション)が天満屋跡地という事になりそうです。

 

それでも、なにか引っかかるものがあったのですが、先日たまたま寺町通二条上がる(京都市役所西側)の古い店舗を見た時、ご隠居さんのおっしゃった事に納得しました。

 

 

この古い店も門(入り口)をはさんで右側に民家、左側に通りに面して店が建つという「天満屋スタイル」です。この形が(少なくとも)江戸時代後期から明治にかけての京都の商店の典型的な形だったのでしょう。こういう「天満屋っぽい建物」が京都のあちこちにまだ現存しているという事がわかっただけでも、今回は収穫があったと喜ぶべきなんでしょうね。