藤本鉄石と、彼が頭目に推される事になった、いわば“在京浪士組”に関して調べているうちに、ある事に気が付きました。
それは吉成勇太郎の寓居に関する事です。
吉成勇太郎は水戸藩士で神道無念流の剣客。新選組の芹沢鴨や新見錦ら「玉造勢」と近い人物であり、なおかつ長州の桂小五郎とは江戸練兵館の同門でした。特に新見錦の出自を探る上でのキーマンとなる人物なのではないかと目されています。
その吉成勇太郎は、上洛当初長州藩の保護を受けていましたが、文久三年五月に備前岡山藩などの援助を受けて寓居を構えています。
が、その場所に関して「二条木屋町樋之口下ル」とする『会津藩庁記録』の記述と「上木屋町」とする『安達清風日記の記述があるようです。
このうち、「樋之口下ル」に関しては現在、二条通沿いの樋之口町の事だと解されているようですが、以前『島田左近暗殺始末(18)現場は樋之口町ではない』で書きましたが、実はこのあたりにはもう一つ「樋之口」があります。鴨川の支流みそそぎ川の水を高瀬川に引き込んでいる「高瀬川樋之口」です。
※二条木屋町周辺図(肝心のみそそぎ川を書き忘れました・・・)
「樋之口下ル」を「樋之口町を下る」ではなく「高瀬川樋之口を下る」と考えると、同じく水戸藩士の酒泉彦三郎が書いた『酒泉直滞京日記』の
木屋町吉成勇太郎旅寓を訪う。同所は鴨川を帯び、また叡山を戴き、後ろは高瀬川に添い、すこぶる風景に富み眺望もっとも美なり。
(佐久間)象山の斃れたるは吉成の寓居の前にして、佐久間の寓居よりは五、六間も北にありたるなり。西は高瀬川を隔つれば長州の藩邸すなわち河原町の裏なり。
という記述とも一致します。そして、この酒泉の「象山の斃れたるは吉成の寓居の前」という記述を信用すると、その候補となる建物はほぼ絞れてきます。
そのうちの一つは、のちの明治二年八月四日に大村益次郎が襲撃される事となる貸座敷ですが、ここは幕末の頃は長州藩が別邸として借りていた事が分かっており、そこに水戸藩士の吉成勇太郎が居を構えるのはおかしい。
となると選択肢は一つしかないと言えます。それはその南隣、桂小五郎と幾松の潜伏先として知られる、現在料亭幾松が建っている場所です。
ここなら吉成勇太郎の寓居に関するすべての証言に矛盾しておらず、なおかつ吉成は桂とは神道無念流の同門であったので、奥座敷に桂を匿っていたとしても不思議ではありません。
それにしても、です。前述のとおり吉成はこの寓居を借りるのに、備前岡山藩の援助を受けていますが、備前岡山藩と言えば他でもない藤本鉄石の出身藩です。何も関係がなかったとはちょっと思えません。
また、吉成の上洛時には既に殺されていたとは言え、本間精一郎が宇都宮藩の儒者大橋訥庵と協力して進めていた計画に水戸藩士も絡んでおり、大橋の逮捕後、彼ら水戸藩士が暴発した結果が坂下門外の変となりました。本間精一郎と吉成勇太郎のつながりも一度探ってみる必要がありそうです。
更には芹沢鴨に新見錦・・・。これまで見えてこなかったつながりが、その棲み家を調べる事によって、おぼろげながらも見えかけてきたような気がします。
水戸藩士吉成勇太郎の寓居跡?旅館幾松(画像はお借りしました)