島田左近暗殺始末(18) 現場は樋之口町ではない | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

事件現場についても再検討が必要なようです。僕はこれまで、島田左近が田中新兵衛らの襲撃を受けた、愛人君香の屋敷があったのは木屋町二条の樋之口町だと考えてきました。それは以下の史料の記述が根拠になっています。

 

「九条家権臣嶋田左兵衛事、薩士に追い廻わされ大阪より逃げ戻り候後、所々潜伏いたし候処、七月二十日夜、木屋町二条下ル樋口黄檗山印房勝兵衛座敷にて殺害に逢い候事」(『平塚清影雑集』 文久二年七月)

 

「左近殺さるるの前、新たに祇園新地の妓楼三浦屋の芸妓君香を落籍し、木屋町二条樋之口の水亭に置けり」(『維新史談』松村巌)

 

 

 

一方で樋之口町ではないとする史料もあります。

 

「当五月中、祇園新地末吉町三枡屋常蔵差配芸者ゆうを身受け致し、木屋町二条下ル東生洲町印房庄兵衛貸座敷借り受け、下女両人相添え差し置きこれ有り」(『近衛忠煕家記』文久二年七月二十二日)

 

東生洲町は樋之口町の隣町ですが、いずれも二条通りに沿った京都らしいごく小さな町です。

 

が、殺害現場に関しては樋之口町に隣接する善導寺の山門前だとする説もあり、一方で東生洲町だとしているのが公家の近衛忠煕である事から、おそらく風聞の類いなのだろうと思われた為、やはり樋之口町が正しいのであろうと考えたのです。

 

 

 

しかし、よくよく考えてみると樋之口町だとすると辻褄が合わない事があるのです。襲撃現場となった屋敷の裏に川が流れていたとする記録が複数あるのですが、樋之口町の裏手は寺や角倉屋敷であって川は流れていないのです。

 

あるいは寺や角倉屋敷の邸内にあったであろう池から水を引いて水路を作っていて、それを「川」と呼んでいたのかとも考えましたが、やはりそれでは無理があります。

 

また、遺体が長州藩邸裏の高瀬川で発見された事が当時の複数の史料に記載されていて、「動かしがたい真実」である事から、もし樋之口町で殺害されたとなると、新兵衛たちは首のない左近の遺体を担いで夕暮れ時の二条通りに一度出て、高瀬川に遺体を投げ込まなければならなくなります。まだ人通りが絶える時間でもなく、これは現実的にはあり得ない話だと思います。

 

では、事件現場はどこだったのかと改めて探してみると、実は二条木屋町にはもうひとつ「樋之口」がある事に気づきました。それは鴨川の支流みそそぎ川から高瀬川へ水を引き込む水路「高瀬川樋之口」です。

 

 

※.みそそぎ川と現在は暗渠(地下水路)となっている高瀬川樋之口の入り口(金網の下)