島田左近暗殺始末(17) 疑わしき人 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

実は、高瀬川に浮かんでいた首なし遺体を検分し、膝の擦り傷跡や足の指の形の特徴から甥の島田左近に間違いないと決定的な証言をした聖徳寺住職という人物にも謎があります。

 

当時京都所司代の与力であった佐野常次郎の『佐野正敬手記』によると

「九条殿家来両人並叔父聖徳寺随譽

となっていて、この人物は左近の叔父(母の弟)の随譽という僧になっているのですが、同書中の奉行所から送られてきた書付の写しによると

「同人叔父綾小路大宮西江入町聖徳寺実正

となっていて、法名が違っているのです。更に同書中の同心佐久間啓次郎による届書には

「左兵衛権大尉に相違これ無き旨、右御家来、伯父聖徳寺共申し聞き候」

と、今度は伯父(母の兄)という事になっています。これには佐野も呆れたようで

「前に叔父とあり今は伯父とあり、何れかこれ」

と但し文を書き加えています。

 

これがよくあるような風聞書の類いであれば、単なる「不正確な情報」で片付くのですが、事件を実際に取り調べている奉行所や所司代の役人による報告書なのです。しかも遺体の身元確認の為に呼び出した親族なのですから、当然ながら聴取は正確を期して行われたはずです。

 

あるいは当時の役人たちが堕落していて、いい加減な聴取しかしていなかったのでしょうか。僕は、この人物が本当に島田左近の親戚なのか疑わしくなってきました。

 

そもそも子供ならいざ知らず、すでに四十歳近い甥っ子の、膝の擦り傷や指の形の特徴を、そんなにはっきり覚えているものでしょうか。左近は安政の大獄以来精力的に活動し、女性関係もまた派手でした。一体、この「伯父か叔父」に当たる僧侶は、左近の膝の擦り傷や指先をいつ見たというのでしょう。

 

もしも、この人物が怪しいという事になれば、そもそも島田左近の人物像自体が疑わしくなってきてしまいます。

 

しかし、これまで書いてきたように島田左近という人物は怪しい事だらけです。九条家の一切を義母千賀浦と共に牛耳っていたはず(※)なのに、文久二年に入り従六位下左兵衛権大尉に叙任されるまでは、なぜか「平士」にすぎなかった可能性がある事

 

「九条家元平士島田勘解由改め左近、昨年和宮関東御下行の節出府、大樹(=将軍)(の御)見得有り、当(文久二年)正月帰京の砌(みぎり)五十人扶持充てがわれ上京、直ぐに侍左衛門大尉(左兵衛権大尉の誤り)従六位下宣下さる」(『実麗卿記』文久二年七月二十三日)

 

更に命を狙われ出した文久二年に入って、同じ「島田左兵衛権大尉」を名乗る人物が、本人を含め二人ないしは三人いた可能性がある事など、どうも島田左近については、一度根本から疑ってかかった方が良いのではないかと思ったりします。

 

その為にも聖徳寺を一度取材してみたいと思い、先日訪ねてみたのですが、ちょうどお彼岸でとてもお話を伺えるような様子ではありませんでした。

 

実は、聖徳寺は一般の公開・参拝を認めていません。ご近所の方にさりげなく伺ったところ、「そういう話を聞かれるのは難しいかも知れません」とのお話でした。

 

京都の住所は実に複雑でわかりづらいので、現地を訪れるまで気づきませんでしたが、実はこの聖徳寺、山南敬助をはじめとする新選組隊士が眠る光縁寺の斜め向かいにあります。

 

つまりは翌文久三年より新選組屯所となる前川邸や八木邸、更には左近を襲おうとして失敗した清河八郎が浪士組を率いてその本陣とした新徳寺などの新選組関連施設から300m程度しか離れていないという事になります。

 

 

 

 

※.「九条家の事は大小となく一に二人の意に出づ」(『岩倉公実記』)