新選組・不動堂屯所の謎(10)若山要助日記 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

先日、京都市歴史資料館で購入した『若山要助日記』

 

 

この日記は、幕末期に山城国葛野郡東塩小路村の庄屋であった若山家十九代要助守一と、二十代要助喜一の親子二代により綴られたものです。

 

東塩小路村とは、現在の京都市下京区東塩小路町、東塩小路釜殿町、東塩小路高倉町、東塩小路向畑町に相当する地域ですが、実はその大部分が現在のJR京都駅の敷地になります。

 

そして、何よりも大切な事は、この東塩小路村の西隣が葛野郡不動堂村であるという事です。

 

不動堂村と言えば、言うまでもなく新選組の京の都における最後の屯所があったとされる場所です。

 

この『若山要助日記』の中に「不動堂屯所」の本当の場所を探るためのヒントが隠されているのではないか、と期待したのですが・・・。

 

 

 

残念ながら、実は慶応三年の正月から七月までの間、日記はほとんど日付と天気しか記されていません。新選組が不動堂村に移ってくるのは同年六月とされているので、まるで時期を合わせたように日記を書いていないのです。

 

これは、ひょっとしたら「自粛」したのではないでしょうか。何しろ“あの”ウワサの新選組です。いきなり家に押し入って家財道具を没収し、その中に日記を見つけて、そこに悪口と取れるような事が一つでも書いてあったら何をされるかわからん、と思ったのかも知れません。

 

そんな中で、前年の慶応二年の記事に、ちょっと気になるものを2つ見つけたので紹介したいと思います(原文読み下し)。

 

慶応二年九月二日 晴

一、今夕寄り合い。右はこの度六条御殿御畑地へ家立ちに相成りに付き、左相成り候ては村方田地の差し支えに相成り故、右相成らぬ様相談の事。

 

「六条御殿」とは西本願寺の事です。その西本願寺の「御畑地」に、今度家が建つ事になったが、そうなってしまうと村の(所有する)田んぼに不都合なので、そうならないように相談した、と言うのです。

 

これは、あるいはかなり重要な記述かも知れません。ここで言う「村方」は、特に記述がないので東塩小路村の事だと思われますが、西本願寺所有の「御畑地」に家が建つと東塩小路村の田んぼにとって差し支えるというのですから、両者はかなり近い距離にあると考えられるからです。

 

場所的に見ても、慶応二年九月の時点で「建設計画」が持ち上がったという点を見ても、これは新選組屯所の事を言っているのではないか、という気がしてなりません。

 

そして

 

慶応二年四月二十一日 晴

一、今日井手口より六条御隠居屋敷内、次に間の町裏まで浚(さら)い候事。

 

井手口とは田んぼに水を引き入れるために水を堰き止めてある場所の事で、そこ(残念ながらまだ具体的な場所は掴めていません)から「六条」つまり西本願寺の「御隠居屋敷」の中を経て、更に「間の町裏」まで用水路のドブさらいをしたと言うのです。これが新選組が不動堂屯所に移転する約一ヶ月ほど前の事。

 

どうも新選組の名に怯える住民の不満をかわす為に「建設しているのは西本願寺御隠居屋敷だ」と言う事にしたのではないかと思えます。そして新選組がやって来る前に水路のドブをさらって、水の流れを良くしておいたという事ではないでしょうか。

 

まだ読んでいる途中なのですが、どうやらこの2つの記述はいずれも新選組屯所の事を指しているように思えてなりません。

 

そして、そうなると、まだ具体的な場所は解明出来ていないものの、東塩小路村が利用していた「井手口」と、「間の町(の)裏」の中間に屯所があったという事になりそうですね。

 

いずれにしろ「御畑地」という事は、現在「不動堂村屯所跡」の碑が立っている2つの場所とは違うと見て、ほぼ間違いないと思われます。不動堂屯所が実は現在のJR京都駅構内だったと言う僕の考えも、まんざらでもないように思えてきました。