藤本鉄石(21)大山鳴動 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

江戸へ向かった清河八郎は、途中甲州で同志土橋鉞四郎(のちに森土に改姓)に会い、相模平塚宿では江戸から帰国途中の薩摩藩の行列を見、同志の益満休之助と秘かに会いました。

 

益満は前日の文久二年(1862)八月二十一日に起こった生麦事件について説明し、清河に再度の決起を促します。この時、清河が詠んだ歌のひとつ

 

御国守(も)る 剣佩く身の如何なれば

        夷(えびす)に屈む腰やあるべき

 

江戸に戻った清河は、同志山岡鉄太郎、松岡万、村上俊五郎らと語らい、今後の方策を練ります。そして清河は腰を落ち着ける間もなく、水戸から仙台へと同志を募る旅に出るのでした。

 

その頃、江戸では麻疹(はしか)が大流行しており、将軍家茂と和宮が揃って罹患した他、庄内藩主酒井忠寛は、九月にこの病のために命を落としました。

 

そして、清河に連座して小伝馬町の女牢に入れられていた妻のお蓮も麻疹にかかり、下谷の庄内藩中屋敷に移されましたが閏八月七日に死亡しました。まだ二十四歳でした。愛妻家であった清河は

 

変わるまじ たとひ先駆けゆくとても

             ながくつれそう年の魂

 

 

など数首の歌を詠んでお蓮の死を悼みました。

 

そして十月十七日、講武所剣術教授方松平主税介が、浪士の懐柔を幕府に進言、同月二十八日には攘夷督促と御親兵設置の勅書を携え、勅使三条実美と副使姉小路公知が江戸に入りました。

 

孝明天皇直々の「攘夷を実行せよ」という督促に、幕府は将軍徳川家茂自らが上洛して奉答書を捧げ奉る事に決するのでした。