藤本鉄石(20)北の狼 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

さて、少し時間をさかのぼります。

 

文久元年十一月、本間精一郎は薩摩の樺山三円に手紙をしたためています(『本間精一郎事歴』~「精一郎が樺山三円に与えたる書」国立公文書館デジタルアーカイブ)。

 

ちなみに、この書簡には日付が記されていませんが、「西郷君の義、御心配」という記述や、十一月を表す「仲冬念有四(十一月四日の意味か)」から、西郷隆盛が僧月照と入水自殺をはかった文久元年十一月に書かれたものであろうと思われます。

 

つまりは島津久光が藩兵を引き連れて上京する文久二年三月よりもずっと前の話なのですが、本間は

 

自然、御同志御上洛下され候節は京都守衛

 

薩摩藩兵が上洛すれば、自然と“京都守衛”に任命されるであろうとし、その際には

 

三条上東側、画工藤本津之助号鉄石御人に、ともかくも御尋ね下さるべく候

 

と、藤本鉄石をぜひ尋ねてもらいたいと樺山に勧めています。

 

そして、その一方で本間自身は

 

僕、兼ねて御話し申し上げ候とおり、もとより東行(江戸へ行くこと)存じ寄りに候ところ、この間、会(津)藩人に打ち合い候義もこれあり候に付き、来春に相延ばし候か、然らずんば来月早々には東行仕るべく候

 

江戸へ行く予定だったが、会津藩士と打ち合わせがあるので、江戸行きは来春か、早くても来月早々になるだろう、と述べています。

 

この時、本間精一郎が会津藩士の誰と、何を打ち合わせたのかは分かりませんが、この後、寺田屋騒動で薩摩に「裏切られた」あと、入れ替わるように京都守護職に就任した会津藩に大きな期待を寄せた事は想像に難くありません。

 

その本間が殺害され、「深沈」(「本間至誠伝」松林飯山)していた鉄石が、本間の志を継ぎ会津藩との接近をはかったとしても、これまた不思議な話ではないと言えるでしょう。

 

いずれにせよ、その会津藩が京都守護職に正式に任命されたのが文久二年閏八月一日。その月の二十日に本間は暗殺されてしまいました。

 

そして本間暗殺から四ヶ月後の同年十二月二十四日、松平容保は会津藩兵を率いて上洛し、黒谷の金戒光明寺をその本陣とするのです。

 

 

 

 

 

・・・似てない(笑)

 

というか、どういうわけだか僕に似てる(笑)

 

 

※.西郷と月照が入水自殺をはかったのは安政五年でした。訂正しておわび申し上げます。