藤本鉄石(19)弔い | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

本間精一郎が暗殺された事は、彼の同志たちに大きな衝撃を与えました。

 

のちに天誅組総裁となる三人の志士のうち、松本奎堂は霊名社において神式の、吉村寅太郎は某寺において仏式の葬儀を営み、本間の霊を弔いました。

 

一方、藤本鉄石はこの頃、不可解な行動をとっています。

 

断末魔に喘ぐ幕府の志士に対する圧制は、日を逐うて峻烈となり、鉄石も身辺に危険を覚えるようになったので、御幸町三条の居を脱し、東山今熊野妙法院近くの農家に身を潜め同志との連絡を保ったのである。『維新の史蹟』(星野書店/大阪毎日新聞社編・昭和14年)

 

 

妙法院(東山区妙法院前側町)

 

 

 

昭和十四年に刊行された『維新の史蹟』の中のこの記述が、何に基づいて書かれたものなのかは不明ですが、住んでいたかどうかは別として、この頃鉄石がたしかに妙法院あたりにいた、という事を示している史料があります。

 

結城筑後守来る。会津藩大庭恭平来る。長藩福原乙之進、京儒藤本津之助来る。遇(あ)わず。妙法院宮に至り、遂に藤本鉄石の家に至る。これ先に紀伊候借りんと欲し、妙法院の境内にて旅亭と為す。(『隈山春秋』平井収二郎・文久二年十月二十八日)原文読み下し

 

 

驚いた事に鉄石は、本間精一郎を殺害した張本人である、土佐勤王党の平井収二郎と面会していたのでした。

 

鉄石はすでに本間を見限って土佐勤王党に味方していたのでしょうか。のちに松本奎堂、吉村寅太郎と天誅組三総裁となる事を考えると、鉄石のこの行動は矛盾しているように思えます。

 

しかし、もしそうだとすれば、この後の鉄石の行動は更に矛盾する事になってしまうのです。

 

その話はのちにするとして、藤本鉄石が松本奎堂や吉村寅太郎と同じ考え、つまり本間を弔いたいと考えていたのだとしたら、この平井収二郎との面会の真意を推測する事が出来ます。

 

鉄石は本間精一郎殺害の一件を平井収二郎に問いただし、返答次第によっては、その場で平井を斬るつもりだったのではないでしょうか。

 

ちなみに、のちに天誅組盟主となる中山忠光卿は、この約一ヶ月前に武市半平太の元を秘かに訪ね

 

恨不得刺本間者(本間刺したる者恨まざるを得ず)

 

と武市本人に向かって言い放ったので、同席していた土佐勤王党一同は

 

衆愕然而不信(衆、愕然として信じられず)

 

と驚いた、と『隈山春秋』に平井が記しています。本間は「三姦両嬪」(和宮降嫁に尽力した久我建通、岩倉具視、千種有文の三公卿と少将内侍(今城重子)、衛門内侍(堀川紀子…岩倉具視の実妹))排斥のために中山忠光卿のもとで活動していたのですが、武市らはその事実をおそらくこの時はじめて知ったのでしょう。

 

 

いずれにしろ、残念ながら鉄石は事の確信を得るに至らなかったようで、平井収二郎は無事に妙法院を出て旅宿へと帰って行ったのでした。

 

さてそうなると、そもそも藤本鉄石が身に危険を感じた相手とは、取り締まりの役人たちであったでしょうか。むしろ同志本間精一郎を殺した過激な攘夷派志士たちではなかったでしょうか。