藤本鉄石(18)本間精一郎の暗殺 | またしちのブログ

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寺田屋騒動のあと、伏見義挙計画に関わった浪士たちは、あるいは謀殺され、あるいは捕縛の憂き目に合いましたが、舟遊び事件で事前に離脱を余儀なくされていた藤本鉄石・清河八郎らのグループは、土佐に強制送還となった吉村寅太郎を除けば、幸運にも難を逃れる事が出来ました。

 

そしてひと月ばかり過ぎた文久二年(1862)の六月六日、清河八郎は一旦京を離れる事になります。

 

安積五郎も京を離れ、河内の勤王家でのちに天誅組に参加することになる水郡善之助のもとへ。

 

一方、伏見義挙の失敗と寺田屋騒動における血の粛清は、一部の浪士を過激化させ、七月二十日には島田左近が薩摩の田中新兵衛らにより暗殺されました。いわゆる天誅騒動の始まりです。

 

そして八月二十六日、藩主山内豊範に随伴して武市半平太ら土佐勤王党が上洛します。

 

すでに土佐で吉田東洋を暗殺してきた武市半平太は、京においても「邪魔者は消す」凶行を実行しました。

 

その標的となったのが鉄石の同志の一人でもあった本間精一郎でした。

 

文久二年閏八月二十日の夜、雨の中、四条のに呼び出された本間は、途中で待ち伏せされている事に気づき、来た道を引き返しますが、先斗町から三十九番路地を抜けて木屋町通四条上ルに出ようとしたところを、土佐勤王党の武市半平太、岡田以蔵、平井収二郎、小幡孫次郎(もしくは孫三郎)、島村衛吉、田辺豪次郎、千屋熊太郎、広瀬健太、そして薩摩の田中新兵衛(※)に挟み撃ちにされ、本間は二十九歳の生涯を閉じました。

 

翌朝、本間の首級は四条大橋北側の河原に晒されました。その首の下にくくりつけられた斬奸状には以下の文が書き込まれていました。

 

 本間精一郎
この者の罪状今更申すまでもなく、第一虚喝をもって衆人を惑わし、その上高貴の御方へ出入り致し、佞弁を以て薩長土の三藩を様々讒訴致し、有志の間を離間し奸謀を相工(たくら)み、あるいは非理の貨財を貪り取り、その他謂われぬ姦曲筆上に尽くしがたく、このまま差し置きては無限禍害生ずべきに付き、かくの如く梟首せしもの也
             閏八月

 

 

 

※.『武市瑞山在京日記』より。ただし、田辺豪次郎の証言によると襲撃者は田辺の他に平井収二郎、松山深蔵、広瀬健太、岡田以蔵、清岡治之助、田中新兵衛という。

 

本間精一郎暗殺の顛末については、これまで何度も書いてきたので今回は省略します。興味のある方は以下をクリックしてみて下さい。

本間精一郎の暗殺(1)

本間精一郎の暗殺(2)

本間精一郎の暗殺(3)

本間精一郎の暗殺(4)

本間精一郎の暗殺(5)