京都霊山護国神社(7)天誅組(後) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都霊山護国神社に眠る天誅組隊士たちのご紹介、今回でひとまず最後という事にさせていただきます。

 

 

武林八郎。天保十年(1939)河内生まれの農民。文久三年水郡善之祐ら河内勢と共に天誅組に参加するが桜井にて捕らえられる。

元治元年一月に釈放されるが、禁門の変に際して長州軍に加わり鷹司邸内で戦死した。享年二十六歳。

 

 

 

島浪間(しま なみま)。天保十四年(1843)土佐国高知長浜村の生まれ。土佐勤王党に加わるが武市半平太と意見が合わずに脱藩する。

吉村寅太郎に従い天誅組に参加するが、八月十八日の政変で幕府軍の討伐を受けると中山忠光卿を護衛して大坂ついで長州へと逃亡する。

第一次長州征伐のあと、同志を募ろうと岡山を訪れた際に強盗と間違われて住民に虐殺された。享年二十三歳。

 

 

 

 

伴林光平。文化十年(1813)河内国生まれ。姓の読みはは「ともばやし」と「ばんばやし」の二説あり。大坂八尾教恩寺の住職だったが還俗して勤皇の志士となる。

天誅組では記録方となったが、本隊壊滅後、大坂へ向け敗走中に捕らえられた。

元治元年二月、六角獄舎において処刑。享年五十二歳。

『陵墓検考』『南山踏雲録』などを著す。

 

 

 

 

三枝蓊(さえぐさ しげる)。天保十一年(1840)大和国樵木村(現・奈良県大和郡山市)生まれの僧。絵画を藤本鉄石に、国学を伴林光平に学んだ。

天誅組に参加するが、壊滅後は逃亡し因幡・但馬・伯耆などで絵を売って暮らしていた。

慶応三年の高野山挙兵に参加。下山後は御親兵に加わる。

しかし、新政府が開国政策をとる事が分かると憤慨し、慶応四年二月三十日、明治天皇に謁見する為に御所に向かっていたイギリス公使パークスを襲撃、しかし失敗して捕らえられ、三月四日、粟田口にて斬首された。享年三十四歳。





福浦元吉。文政十二年(1829)生まれ。淡路国洲本の商人。古東領左衛門の指導を受け尊皇攘夷活動に参加する。
天誅組に古東と共に参加。十津川郷士らの離反後、鷲家口にて藤本鉄石と共に紀州藩本陣に突入して戦死。享年三十五歳。




そして最後に・・・


藤本鉄石。文化十三年(1816)生まれ。岡山藩士片山佐吉の四男。のちに本家藤本彦右衛門の養子となる。

養父の死後、脱藩して天保十四年から嘉永四年まで足かけ9年かけて全国を漫遊。この間に若き日の清河八郎、山岡鉄舟、古東領左衛門などと出会い、強い影響を与えた。

天誅組では松本奎堂、吉村寅太郎と並ぶ三総裁の一人となったが、鉄石が最年長であり、署名等を見ても事実上の首魁であったと思われる。

高取城攻めに失敗し、十津川郷士たちも離反すると、鷲家口において福浦元吉を従え紀州藩本陣の旅籠日裏屋に突入し、壮絶な最期を遂げた。享年四十八歳。

天誅組は討幕運動の先駆けと評されるが、鉄石自身は佐幕攘夷派の重鎮と言うべき人物であり、決起は「江戸への真の忠義」の為であると親族に書き送っている。将軍家茂に攘夷決行の英断を迫る為に、敢えて暴挙に出たという事であろう。

おそらく失敗に終わる事も、賊徒の汚名を着て死ぬ事もすべて覚悟の上だったのではないかと思われる。