京都霊山護国神社(6)天誅組(中) | またしちのブログ

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では、京都霊山護国神社の天誅組隊士の墓及び招魂碑の紹介の続きを。

 

まずは合同碑から。

 

 

 

 

天誅組合同碑は結構急な石段の上に建っています。

 

 

 

 

 

 

安積五郎。文政十一年(1828)江戸日本橋呉服町の易者安積光徳の子として生まれる。少年期に疱瘡を患い右目を失明した。弘化五年(1848)四月二十六日、神田お玉ヶ池の東条一堂の塾で清河八郎と出会い、以後その片腕的存在となる。

寺田屋騒動の後、清河八郎は江戸へと戻ったが安積五郎は関西に留まったらしく浪士組には参加していない。

天誅組では旗奉行を務めたが捕縛され、翌元治元年(1864)京都六角獄舎で処刑。享年三十七歳。姓は「あづみ」と読むのが正しいらしい。

 

 

 

古東領左衛門。姓は「ことう」と読む。文政二年(1819)淡路島に生まれる。古東家は島内屈指の豪商で代々庄屋を務めた。

遊歴中の藤本鉄石の訪問を受け、その影響を受け尊皇攘夷思想に目覚めたという。天誅組支援の為に全財産を投げ打ったと言われる。

文久三年八月二十一日夜、三条大橋東側の旅籠豊後屋にいたところを新選組に捕縛される。翌元治元年、禁門の変に際して六角獄舎に処刑された。享年四十六歳。

 

 

 

乾十郎。文政十一年(1828)奈良五条に生まれる。森田節斎に儒学を梅田雲浜に国学を学ぶ。大坂高麗橋の医師原左一に医学を学び、今橋で開業。のち故郷五条に戻ると廻船運賃の二重払い是正など様々な献策をした。

天誅組挙兵に際しては吉村寅太郎と共に十津川村へ赴き、参加を呼びかけている。天誅組崩壊後は逃亡を図るが大坂で逮捕され、翌元治元年七月、禁門の変に際して六角獄舎において処刑された。坂本龍馬、伊達五郎(陸奥宗光の父)らと交流があったという。享年三十七歳。

 

 

 

 

水郡善之祐。姓は「にごり」と読む。墓碑には水郡小隼人とある。伊勢神戸藩の代官喜田岩五郎の嫡男。水郡神社の祠官となり姓を水郡に改めた。

黒船来航以来、京で尊皇攘夷活動に従事するが、文久三年、足利三代木像梟首事件に関与して故郷に逃れ、同年天誅組が挙兵すると、息子英太郎と共に参加、小荷駄奉行となった。

五条代官所襲撃後、十津川郷に入るも和歌山藩兵に囲まれて自首。翌元治元年同志と共に六角獄舎に処刑された。享年三十九歳。

ちなみに息子の英太郎は許されて釈放。慶応三年の高野山挙兵に加わって後、北越戦争に従軍。維新後は宮内省に出仕している。