もう3か月も前の話になりますが、京都を訪れた際に東福寺に行って来ました。
塔頭のひとつ即宗院にあるという田中新兵衛のお墓をお参りしたいと思ったのです。
即宗院は薩摩藩の菩提寺で、嘉慶元年(1387)に島津家第六代当主氏久により創建されましたが、のちに焼失し、戦国時代に第十六代当主義久によって再建されました。
即宗院への道順は、まず本堂を横に見て直進し・・・
東福寺本堂(写真の左側に向かって進みます)
更には庫裡もやり過ごしてまっすぐ進むと・・・
東福寺庫裡
細い道になり、その入口に「鹿児島藩招魂碑」(「魂」は異字体)があります。
鹿児島藩招魂碑
あとは道なりに進むだけです。すぐに偃月橋(重要文化財・日本百名橋)が見えてきます。
偃月橋を望む
偃月橋
橋の上から眺める景色はとても風情がありましたが、写真を撮るのを忘れてしまいました・・・。
偃月橋を渡れば、そこに即宗院があります。いよいよ田中新兵衛の墓に・・・と喜んだのも束の間
なんと、「観光しておりません」の看板が。
そうです。即宗院は原則非公開なのです。調べたところ11月中旬から12月初旬にかけて一般公開しているようですが、その一般公開の期間中でも墓所は公開していないようなのです。
とどのつまり、田中新兵衛の墓を見たければ即宗院に自分の家の墓を建てるしかない、という事になりそうです(招魂碑の写真にあるように現在墓地分譲中です)。
即宗院の門
即宗院には京都で命を落とした、功績のあった薩摩藩士たちが祀られていると言われているらしいのですが・・・
奈良原喜左衛門…生麦事件で英国人リチャードソンを斬殺。慶応元年(1865)、京都二本松の藩邸で病没。
中井弘…脱藩して京都に在住する。慶応四年(1868)、明治天皇に謁見しようと御所に向かっていた英国公使パークスを後藤象二郎と共に護衛し、襲撃者の朱雀操を斬殺した為、攘夷派から恨まれた。奇行癖があったとされる。
そして田中新兵衛とくれば、「功績があった」というより、薩摩藩にとって「封印してしまいたい人々」だったのかな、という感じがしないでもありません。
固く閉ざされた即宗院の門の前に立ってみると、「功臣」の美名のもとに、永久にその魂を封じ込められてしまった田中新兵衛が、とても憐れに思えてきてなりませんでした。
「本当にこれで良かったんですか?新兵衛さん」
そう心の中で尋ねてみましたが、果たして田中新兵衛の魂に届いたでしょうか。
ちなみに、グーグルアースで調べてみたところ、墓地は即宗院のずっと奥にあり、下で示したストリートビューに写っている塀の向こうにあるようです。今度訪ねた時は、ここに行ってみたいと思っています。
余談ながら、東福寺は田中新兵衛が殺害した島田左近の主人、九条家の菩提寺でもあります。その境内の一角に田中新兵衛が眠っているというのも奇縁というべきでしょう。