赤報隊士列伝 黒駒の勝蔵(2) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

中村甚兵衛が博徒として力を増大させて行くと、幕府は、今度はその対抗勢力を育てて甚兵衛を潰そうと考えます。そうして白羽の矢が立ったのが、甲府に勢力を張る博徒、三井卯吉でした。

 

幕府は、卯吉に関東取締出役の道案内役と言う肩書を与えます。「道案内役」と言う言葉は、何やら平和な印象を与えますが、取り締まるべき対象への道案内をする役目であり、要は江戸の岡っ引きと同種の役目でした。

 

「ヤクザの親分」と「幕府の爪牙」という二足の草鞋を履く事になった卯吉は、甲州博徒の二大巨頭であった中村甚兵衛と津向の文吉(つむぎのぶんきち)との間に抗争を繰り広げる事になります。甲州博徒は三者鼎立状態となったのでした。

 

津向の文吉は、八代郡鴨狩津向(山梨県西八代郡六郷町)を拠点に、富士川の舟運のアガリと、その下流に一大勢力を張っていた清水の次郎長の後ろ盾によって勢力を保持していましたが、嘉永二年(1849)昔の喧嘩で相手を死亡させてしまった事を理由に、捕らえられて八丈島送りとなり、あっけなく退場してしまいます(明治二年五月に赦免)。

 

そして盟友を失った清水の次郎長は、今度は三井卯吉と同盟して竹居一家と対抗します。

 

その竹居一家も同じく嘉永二年、親分の甚兵衛が博徒巨魁の疑いありとして逮捕され、逼塞(昼間の外出禁止)処分に。そして弟の「竹居の吃安(どもやす)」こと安五郎は、常習賭博と賭場開帳の容疑で逮捕され、江戸小伝馬町の牢獄に入れられたのちに新島に島流しとなってしまいます。

 

こうして甲州博徒の「三国志」は、三井卯吉の一人勝ちとなったように思われました。が、やはりそうは問屋が卸さないのが世の常です。

 

逼塞処分となりながらも、甚兵衛は一家を保ち続け、そして四年後の嘉永六年(1853)、黒船来航の間隙を縫って弟の安五郎は新島を脱出し、甲州に舞い戻って来ます。

 

安五郎の帰還により勢力を回復した竹居一家に、黒駒の勝蔵が草鞋を脱いだのは、その三年後の安政三年(1856)の事でした。