島田左近の暗殺(70) 武市半平太 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

夜中に突然那須信吾の来訪を受けました武市半平太は、吉村寅太郎の書簡を一読いたしますと、腕を組んだ格好のまま目を閉じまして、何やら長い間思案しておりました。

そうして、ようやく目を開きますと「半助」と使用人を呼びまして

「すまんが、今からひとっ走りして人を呼んで来てもらいたい」

と申しました。半助が旦那様、誰を呼んで参りましょうと尋ねますと

「そうだな。河野万寿弥が良い」

「へえ、承知いたしました」

「いや待て。もう一人だ。上田楠次も呼んで来てくれ」

「へえ、承知」

那須信吾は、武市が河野と上田を呼んでどうするつもりなのか、不審に思いましたが、武市は自分から真意を語ろうとはいたしませぬ。それどころか、那須信吾の方は振り向きもせずに、ただ中空を見つめておりました。

武市半平太は土佐藩郷士武市正恒の長男として文政十二年(1829)、土佐国長岡郡仁井田郷に生まれました。

武市家は元はと申しますと、戦国時代に四国の覇者となりました長宗我部家の家臣、いわゆる一領具足の末裔に当たる家柄でございました。

その一領具足と申します旧長宗我部家臣は、江戸時代になって山内家の治世の下では不遇をかこっておったのでございますが、武市家に関しましては、半平太の祖父正久の時に累代の功績が認められまして、白札格という身分を与えられ、五十一石の石高を有する、郷士としては破格の身分であったのでございます。

半平太は若くして剣術の腕すぐれ、嘉永七年(1855)には自らの道場(小野派一刀流)を開き、門下に中岡慎太郎や岡田以蔵がおりました。

更に安政三年、剣術修行の為に江戸に出まして、鏡心明智流桃井春蔵の下で学び、たちまちのうちに免許皆伝を授けられ、道場の塾頭となったと申します。その才気万人い勝るものがございました。

そして安政七年(1860)、大老井伊直弼が坂下門外の変に斃れますと、全国の有志に一気に尊皇攘夷の気運が生まれ、武市もまた、その影響を強く受けたのでございます。