島田左近の暗殺(69) 土佐へ | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…


さて、三笠屋での対面を機に、吉村寅太郎は脱藩して京に出て国事に尽す事を強く意識するようになったのでございます。

そして久坂に勧められまして、土佐には帰らずに九州に赴き、勤王の諸士と会って意見を交わし、また薩摩の動きをその目で確かめる事にしたのでございます。

その一方で吉村は、本間精一郎に対して是非とも土佐勤王党の首領武市半平太に会って、彼を説得して欲しいと紹介状を認めて路銀と共に本間に託したのでございます。

本間精一郎は、これを受け土佐に潜入いたします。まず吉村寅太郎が庄屋として治めておりました高岡郡の梼原(ゆすはら)村におりました勤王党の那須信吾に吉村の手紙を送り、それを読みました那須信吾は、本間を我家に招き入れたのでございます。

本間は「時勢切迫する中、諸藩はただ因循するばかりで未だに動こうとはしない。今日に至っては我ら草莽の士が率先して身を投じ、臣子の本文を正す時である。決起の時は近い。願わくば土佐の同志も共に起とうではないか」と那須信吾に説いたそうでございます。

信吾は大いに共鳴いたしましたようで、「先生、しばらくお待ち下さい」と、自ら吉村の書簡を手に、武市半平太の元へ走ったのでございました。

思えば土佐藩は、参政吉田東洋が藩の実権を握っておりまして、為に幕府の政策に従い開国容認の立場を採っておりました。

それが為に、せっかく武市半平太を中心に誕生いたしました土佐勤王党も、動きを封じられてしまっておったのでございます。そんな中での「脱藩して共に起つ」という本間の言葉は、那須信吾にいたしましては新たなる道を指し示されたようなものであったのかも知れませぬ。