島田左近の暗殺(41) 伊牟田尚平(二) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

本間精一郎が京へのお供に伊牟田尚平を選びましたのは、この男を放っておいては、自分が江戸を離れておる間に何をしでかすか分からんと言うので連れて来たワケでございます。
 

この伊牟田尚平が京に参りまして何をしたか、果たして本当に東福寺に参ったのか、それとも何か他の用事があったのかは残念ながら分からぬのでございますが、伊牟田はその年のうちに江戸に帰りまして、翌万延元年十二月五日、麻布の赤羽橋にございました接遇所を出て来たオランダ人通訳士ヒュースケンを赤羽根中の橋にて刺し殺す事になるのでございます。
 

余談ながら、ヒュースケンの体を刺し貫きましたるは、三善長光の作と伝えられましたる二尺無銘の刀でございましたが、事件後清河八郎がこれを伊牟田に請うて譲り受け、これぞ攘夷の宝刀よと、「異人切り長光」などと名づけ、我が差料としておったのでございます。

そして文久三年四月十三日、清河は中の橋から百歩と離れぬ赤羽根一の橋の袂にて幕府の内命を帯びた佐々木只三郎、速水又四郎、高久安次郎らに斬殺されましたのでございますが、その時にも、この「異人切り長光」を差しておったそうでございます。

しかし油断しておった清川は、この刀を抜く間もなく斬られてしまうのでございます。夷狄討伐の宝刀も、幕臣相手にはその鞘を出る事はなかったようでございます。

その一方で、本間精一郎の方はと申しますと、翌万延元年の八月か九月頃まで、一年ばかり京に滞在しておったそうでございます。
 

その間、何人かの浪士風の者が本間を訪ねて来ては、それぞれ何処かへ出かけて行ったそうでございますが、その者共はいずれも江戸訛りであったと申します。清河八郎の一党であったのは間違いございますまい。
 

さて、本間精一郎が京に滞在しておる間に、江戸表ではとんでもない事件が起きてしまったのでございます。