神代直人の出自を探る | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

大村益次郎暗殺犯の一人、神代直人の出自について、事件直後に京都府が認めた書簡である「京都府ヨリ賊徒関島金一郎飯田藩於テ捕縛ニ付受取置候旨届」(国立公文書館デジタルアーカイブ)という史料に「神代直人事鷲巣正作」とあり、本名が「鷲巣正作」であるとされている事を以前お伝えしました。

この件に関して、「前進」とまで言って良いのか分かりませんが、少し分かった事があります。

実を言いますと、同じ長州出身で明治9年に萩の乱の首謀者として斬首される前原一誠の母の実家が同音異字の「鷲津」氏だったのです。

『故前原一誠』(「 大正大礼贈位内申書巻一」国立公文書館デジタルアーカイブ)によれば「母は鷲津小右衛門の妹なり」とあります。(1)

そして、この「鷲津小右衛門」を調べてみると、時をさかのぼって徳川吉宗の頃の延享四年(1747)、周防国吉敷郡矢田村(現山口市)の金津治兵衛という者が伊勢参りの際に所持していた往来手形(通行手形)を発行したのが、これまた同音異字の鷲頭小右衛門という山口代官であるという事が判明しました。(2)

この鷲頭氏は、元を正せば大内氏の有力支族で、一時は長門守護代を務めた事もある名門でした。その末裔が毛利家の家臣となったもののようです。

ちなみに、山口代官鷲頭小右衛門が治めていたという吉敷郡は、まさに「神代直人事鷲巣正作」の生まれ故郷とされている地です。「鷲頭」もしくは「鷲津」正作が鷲頭小右衛門の子孫である可能性は決して低くはないと思えます。



また、前原一誠の甥国司仙吉(のちに秋田県権令)は、神代と同じ御楯隊に在籍していた事があり、何より維新後の神代と前原の行動に、どことなく共通項を感じます。

更に、大村益次郎の死後、兵部大輔を引き継いだのは他ならぬ前原一誠であり、何かつながりと言うか、因果を感じます。


たとえばですが、前原一誠の母方の親戚に当たる“鷲津”正作が、萩藩無給通中船頭の神代一平に養子入りして神代直人となった。しかし、その後脱藩などの理由により神代家とは離縁したのだが、本人は神代直人と名乗り続けた、という筋書きなら「アリ」かな、と思うのですが、いかがでしょう。




ところで、ガラッと話が変わりますが、田中新兵衛に続き神代直人もグーグル検索で僕の絵が使われているのに気づきました(笑)


次は中井庄五郎あたりを狙ってみますか(笑)


1 『故前原一誠』
2 「伊勢参りと往来手形」