大村益次郎の暗殺(4) 京都弾正台 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

弾正台は東京の本部(東京本台)と、京都の支部の二つがありました。京都の弾正台については一般に「京都弾正台」と呼ばれていましたが、当初は「留守弾正台」 というのが正式な名称だったようです。のちに「京都出張台」に改められ、御所中立売御門内の今出川屋敷をその庁舎としました。

それにしても留守弾正台という名称、「天皇が留守にしている方の都の弾正台」という意味なら、ずいぶん皮肉な名前ではないでしょうか。

そ の “天皇が留守にしている” 京都の町は、鳥羽伏見の戦いで京都守護職や新選組ら、幕府の治安組織が一斉に姿を消してしまったので、そのあとは、おそらく駐屯していた陸軍局や軍務官などの「軍」が治安維持活動を行なっていたと思われますが、それらは正式な警邏組織ではなかったので、この役割(現在の警察にあたる)を京都弾正台が担う事になりました。

ちなみに、「京都弾正台」という名称から誤解があるかも知れませんが、京都弾正台は決して京の町だけを管轄していたわけではなく、その担当地域は「尾州以西、越前以南、南九州迄」(『弾正台届書』明治2年8月2日)と西日本全域に及んでいました。

これらの点から、当初の人員ではまったく不足している事がわかり、大幅な増員を図ると共に、実質的最高責任者である弾正大忠も1名増員することになりました。

そこで白羽の矢が立ったのが薩摩藩の海江田信義でした。海江田は7月8日に設立された刑部省の刑部大丞に任命されたばかりでしたが、同月21日付で改めて弾正大忠に任命され、そのまま京へ赴任する事になります。

ちなみに、大村益次郎に関して書かれた史料では、この海江田の京都赴任を「大村と犬猿の仲であったので、中央政府の役職から外された」と解釈しているものがほとんどです。

だから海江田は恨みを晴らすべく、謀略を巡らせて大村の到着を待ち構えていた、というのです。

が、しかし

(七月)二十八日戊辰陰晴不定午刻後蒸熱及深夜大雨
一、海江田武次来。此度建白之趣意先以御採用畏存、且弾正忠被仰付、西京可出張御沙汰に付、明日発程西上暇乞旁来談世事多談不能挙記

~海江田武次(信義)来る。この度、海江田が建白した件を採用した事の礼と、弾正大忠に任命され京都に赴任する事が決まり、明日出発する事になったので、その挨拶であった。世間話など大いに語り合ったが、ここには書ききれない。(『正親町三条実愛日記』明治2年7月28日

この日記によると、海江田が江戸を発ったのは、大村益次郎の2日後の7月29日という事になります。一般的には大村益次郎と犬猿の仲であったので、二人を引き離すために京に左遷されたのだと言われていますが、実際は引き離すどころか、大村の後を追うようにして京を目指していた事になります。

しかも

大忠一人、当十月より五ヶ月京都詰交代番之事。
(『弾正台届書』明治2年8月2日

弾正大忠は、5ヶ月交代で京都に赴任する事になっていたのです。当時の史料を見ると、門脇重綾が先に京都に赴任していて、京都に2人弾正大忠がいた事になるので、海江田の赴任期間が具体的にいつまでの予定だったのかは判断出来かねますが、いずれにせよ1年以内に東京に戻る事になっていたのは間違いないと思われます。

これでは単なる出張であり、左遷されたとまでは言えないのではないでしょうか。だとすれば、海江田は大村を逆恨みする必要もないのではないか、と思えますが、その一方で海江田の“出張期間”が、まるで大村の出張に合わせるかのように組まれていた事も気になります。

いずれも東京大学史料編纂所)