本間精一郎が修得した剣術は、今のところハッキリとは分かっていないようです。一説に玄武館で北辰一刀流を学んだと言われていますが、それを証明する史料はまだ発見されていないはずです。
とは言え清河八郎や安積五郎との交流を考えれば、玄武館で北辰一刀流を学んだと考えるのが妥当だと思われます。
ちなみに、上京してからもどこかの道場に通って剣術修行に励んでいたとする史料もあるようですが、それが何流だったのかも分かっていません。
更に一般論として、故郷の越後寺泊でも少年時代に何かの剣術を学んでいたと考えられます。寺泊は桑名藩領であり、同地では神道無念流が盛んだったそうですが、藩士の子息ではない本間精一郎は、むしろ別の流派だったと考えた方が良いのかも知れません。
さて、北辰一刀流玄武館で学んでいたと考えるのが妥当だと言いましたが、そうなると疑問に思う事がひとつあります。
清河八郎が安政四年か五年に作成したと言われている『玄武館出席大概』に、本間精一郎の名前がないのです。
清河は一緒に修行した仲間を記録したかったからこそ同書を書き残したのでしょうし、そうなると仮に先に辞めていたとしても、のちの関係を考えると本間の名を書かないというのは少し不自然な気がします。
そこで、またひとつ考えてみた事があるので、再びぶちまけてみたいと思います(笑)
ただし、今度は「仮説」と言うよりも、それ以前に「仮説として成り立つか」を考えているところなのですが…。
それは
伊東誠一郎が本間精一郎である可能性はあるか
です。
その可能性を考えた根拠は、もちろん名前が同じと言うのが一番大きいのですが、清河八郎、安積五郎共に一流の剣客であり、彼等と対等の立場で付き合っていた本間も相応の腕を持っていたと考えられる事もあります。
たとえば、こういうケースは考えられないでしょうか。
1.先代の伊東某が死亡(もしくは隠居)し、本間精一郎が婿養子となり伊東家を継ぎ「伊東誠一郎(精一郎)」となる。
2.伊東家を継いだ精一郎だが、何らかの不都合があり伊東家と離縁する(させられる)。
3.その跡目として鈴木大蔵が精一郎の養子という形で伊東家に入り婿し、伊東大蔵→伊東甲子太郎となる。
ちなみに本間精一郎と伊東甲子太郎は天保五年生まれの同い年です。また、当然ながら甲子太郎の妻となる「ウメ」は精一郎の実子ではなく、先代の娘か親類から迎えた養女だったと考えられます。
「何らかの不都合」ですが、精一郎が尊皇攘夷活動の為に上京した事が理由だとは思われず、不義密通などの「人に言えない理由」だったと考えたほうが良いのかも知れません。だから甲子太郎の「養父」は死んだ事にされたのではないでしょうか。
そうなると、イケメンの甲子太郎に伊東家ごと「寝取られた」挙句に、ほっぽり出された可能性も無きにしも非ずですが、本間も口が上手くて派手好きだったので女性にはモテたでしょうし、真相は闇の中ですね。
…いや、シンソウというかモウソウなんですが(笑)