深川伊東道場 その2 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

またまた「通りすがり」さんから貴重な情報をいただきました。

こちらのブログ「幕末血戦録」(こちら→

によると、かすみがうら市郷土資料館にて特別展「水戸藩天狗党と新選組高台寺党」(第2部は11月3日まで。12月6日から第3部)が開催されていて、その展示の中に「伊東大蔵の家族」と題された資料があり

伊東大蔵の家族(播磨新宮池田家文書)
文久3年(1863)
原資料 東京大学史料編纂所所蔵

 深川中川町亀吉地借
  水戸様家門
   戸田銀次郎家来
  剣術指南 伊東大蔵
      妻 みつ
      娘 えい

  右大蔵門弟
  松平大和守家来

   内海喜平衛男
   内海次郎


とあるのだそうです。これによると、文久三年の時点では伊東大蔵(甲子太郎)一家は深川中川町の亀吉の土地を借りて住んでいたようです。

そこで、江戸切絵図を調べてみると

伊東甲子太郎の屋敷?

たしかに中川町の一角に伊東甲子太郎の旧姓「鈴木」姓が見えます。これは嘉永五年版、万延元年版双方に共通しています。

という事は、伊東家の婿養子となる以前からこの屋敷を借りて住んでいて、結婚後もこちらを住居にしていたという事になるのかも知れませんね。佐賀町の伊東家屋敷は道場としてのみ使用していたとも考えられます。

妻の名が「みつ」となっている事、「えい」と言う名の娘がいる事も注目ですが、「戸田銀次郎家来」となっている点も気になります。戸田銀次郎は、父の忠太夫、叔父安島帯刀ともども水戸藩の家老をつとめた家柄でした。

千葉周作が水戸藩剣術指南役として召し抱えられたのと同様に、伊東甲子太郎も水戸藩家老の戸田家に剣術指南役として招かれたのかも知れませんが、おそらくそれは先代から引き継いだものだったと思われます。

戸田銀次郎は元治元年の天狗党の乱に同調していたと言われているので、伊東甲子太郎が道場を畳んで新選組に加盟する道を選んだのも、戸田銀次郎の動きに関連あったのかも知れません。


参照させていただきました「幕末血戦録」のブログ主さんに、先にお断りしてからアップしようと思って、コメント投稿やメッセージ送付を何度も試みましたが、なぜかエラーになってしまいます。ひょっとしたら、まだPCの調子が悪いのでしょうか。