私は、自分で自分のことを、ただの過敏症だと思っています。過敏症。その呼び方が、自分に1番しっくり来ます。音に過敏、光に過敏、匂いに過敏、味に過敏、皮膚接触に過敏、心の動きに過敏です。
私は、普通に街を歩いているだけで、多くの刺激や情報に圧倒され、直ぐにいっぱいいっぱいになります。疲れ切ってしまいます。そうなった私は、刺激をキャッチする感覚のシャッターが、音を立てて閉じられます。
シャッターを閉じた私は、刺激をほとんどキャッチできなくなるので、外から見たら、非常に気の利かない、鈍感な人になっていることと思います。このあたりは、今、自分が喋っていても、皆さんに対して、非常に申し訳なく感じている次第です。
よって私は、自分の感受性の強さを、長所というよりは短所と捉えていることが多いです。もう少し、自分の感受性の強さを、上手にコントロールできるようになれればいいのですが、生まれつきということもあって、それはなかなかに難しいことです。

 

昨日まさにそんな記事を垂れ流したばかりですが、昨日記事中に書いた、生まれ持った「気質」というのは幾分間違っているような気もします。おそらくは生まれ持った「体質」なんですよね。

 

ちなみに私は、喧嘩することが大嫌いなのですが、人と勝負事を争うことも嫌いです。負ければ普通に悔しいし、勝っても、負けた相手の気持ちを感じ取ってしまい、素直に喜べません。勝っても嬉しくないし、負けたら悲しいでは、はなから勝負事などやらないほうがマシです。

 

なんとなく想像つく方もおられるかも知れませんが、これは私の場合、真逆だった気がします。自信に満ち溢れて人を見下す者をしたたか打ちのめすことに快感を感じてしまう、というようなことをたびたび書いているように、相手の精神的苦痛を感じ取ることは少なくとも私にとっては苦痛ではなかった。

 

そういうあたりこそが「気質」で、そういう自分が好きかと言えば…さすがに好きじゃありませんね。私はたぶん私を含めて人間というふるまいをする構造物が好きではないんだろうなと。

 

でも、そんなふうにネガティブでも悪趣味でも何かしらやることはあるもんなんですよ。たとえば毎度引き合いに出して申し訳ないけれど私も仕事で関わることの多い災害予測のシミュレーション。この街でこれだけの規模の破壊が起きれば、どれだけの人間が死ぬのか、あるいは住む場所と仕事先とを失うのか、タワマン暮らしが災害時においていかに半島のポツンと一軒家よりリスクが高いのか、集約化を効率化だとしていた自称識者たちが阿鼻叫喚の街と進まぬ復旧作業を見てその時いかに胃袋をキリキリさせながら知らぬそぶりを決め込むのか、政治家たちは自分たちのしてきたことにいかに脂汗流しながら言い訳するのか。そういうことを考えながら仕事をすると…

 

ついつい鼻歌交じりで仕事がはかどっちゃう φ(´ω`*) フンフンフン♪

 

生まれ持った体質も気質も変えられないなら仕方ない。死神は黙って死神やってりゃよいわけで、死神が天使の真似事なんぞをするのはただの欺瞞でしかないと思いますわ。