『哲学の破壊者』として知られるウイトゲンシュタインの言葉にこういうものがあります。
(五・六) 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。( 『論理哲学論考』)
ウイトゲンシュタインが何を意図して言っているのか、今の僕にはよく分かりません。しかし、どこかしら惹かれる言葉ではあります。
僕がもし、言葉や知識を知らなかったとしたら、僕の世界は、随分と違ったものになっていると思います。
小学生の頃、こういう体験をしました。
世界一のカルデラ火山で知られる阿蘇山、その雄大なカルデラを形作る外輪の山々と阿蘇谷を一望できる、「大観望」と呼ばれる展望所に行ったときの事です。
その時に大観望を訪れたのは、2度目でした。
初めての時と違ったのは、僕が「カルデラ」という言葉と、いくらかの阿蘇山の知識を学習していた事です。
初めて訪れたときと、全く同一の風景でした。
しかし、僕が「見た」のは、全く別の世界でした。僕は、初めて来たときと、比べものにならないくらいの感動を覚えました。
「火口の中に街がある!」
何も知らないで見たときの風景と、言語(知識)を習得して触れる風景とでは、そのリアルさが圧倒的に異なります。
ふと思ったのですが、いわゆる女子高生が用いる「かわいい」の範囲の広さです。
ムンクの『叫び』に描かれる歪んだ人物をも「かわいい」と表現されます。『叫びちゃん』なんてマスコットも、一時期販売されていたそうです。
本来の「愛らしさ」を表現するはずの「かわいい」と、不気味な、しかし何かしら心に訴えかけるものに対して用いられる「かわいい」。
極論ですけど、「かわいい」が、同一の語である限り、仔猫の「愛らしさ」と、『叫び』が訴えかける「不気味さ」の区別は、これらを同一の語句で表現するには理解できないのではないでしょうか。
まあ、そこまでは言い過ぎにしましても、例えば、一昔前に流行ったヤマンバメイクにしても、厚底ブーツにしても、それはファッションを越えて、なにかしら「心に訴えかけるもの」であり、「かわいい」と表現されるものなんです。たとえそれが、僕の心には、『醜悪』という言葉で訴えかけているとしても、です。
『言語ゲーム』のルールが異なる者は、全く異なる世界にいる事になるのかもしれません。
僕が危惧している、現代の『断絶』の正体も、このあたりに隠れているのかも知れません。
(五・六) 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。( 『論理哲学論考』)
ウイトゲンシュタインが何を意図して言っているのか、今の僕にはよく分かりません。しかし、どこかしら惹かれる言葉ではあります。
僕がもし、言葉や知識を知らなかったとしたら、僕の世界は、随分と違ったものになっていると思います。
小学生の頃、こういう体験をしました。
世界一のカルデラ火山で知られる阿蘇山、その雄大なカルデラを形作る外輪の山々と阿蘇谷を一望できる、「大観望」と呼ばれる展望所に行ったときの事です。
その時に大観望を訪れたのは、2度目でした。
初めての時と違ったのは、僕が「カルデラ」という言葉と、いくらかの阿蘇山の知識を学習していた事です。
初めて訪れたときと、全く同一の風景でした。
しかし、僕が「見た」のは、全く別の世界でした。僕は、初めて来たときと、比べものにならないくらいの感動を覚えました。
「火口の中に街がある!」
何も知らないで見たときの風景と、言語(知識)を習得して触れる風景とでは、そのリアルさが圧倒的に異なります。
ふと思ったのですが、いわゆる女子高生が用いる「かわいい」の範囲の広さです。
ムンクの『叫び』に描かれる歪んだ人物をも「かわいい」と表現されます。『叫びちゃん』なんてマスコットも、一時期販売されていたそうです。
本来の「愛らしさ」を表現するはずの「かわいい」と、不気味な、しかし何かしら心に訴えかけるものに対して用いられる「かわいい」。
極論ですけど、「かわいい」が、同一の語である限り、仔猫の「愛らしさ」と、『叫び』が訴えかける「不気味さ」の区別は、これらを同一の語句で表現するには理解できないのではないでしょうか。
まあ、そこまでは言い過ぎにしましても、例えば、一昔前に流行ったヤマンバメイクにしても、厚底ブーツにしても、それはファッションを越えて、なにかしら「心に訴えかけるもの」であり、「かわいい」と表現されるものなんです。たとえそれが、僕の心には、『醜悪』という言葉で訴えかけているとしても、です。
『言語ゲーム』のルールが異なる者は、全く異なる世界にいる事になるのかもしれません。
僕が危惧している、現代の『断絶』の正体も、このあたりに隠れているのかも知れません。