バイエルン・ミュンヘン強奪列伝(2000年以前過去メンバー編) | GG Forza SINRA

GG Forza SINRA

Gloly Gloly Forza Sinra

ゲルト・ミュラー

前所属:ネルトリンゲン

所属年:1964-79

1960年代から1970年代の西ドイツを代表するストライカー。抜群の得点感覚とポジショニングでどんな体勢からでも泥臭くゴールを奪いまくり、付いた異名は爆撃機を意味するデア・ボンバー。

1963-64シーズンにネルトリンゲンでデビューするがたったの1シーズンでバイエルンに目を付けられ翌シーズンに強奪される。

バイエルンで決めた通算515ゴールはクラブ最多ゴール数を記録。1970年にはバロンドールの獲得した。1974年のワールドカップでは決勝でトータルフットボールを体現するオランダ代表に止めを刺すゴールを決め優勝に貢献。

現在アルツハイマーの治療中。

 

ローター・マテウス

前所属:ボルシアMG

所属年:1984-88

高精度なパス、正確なポジショニング、タックル、強烈なミドルシュートなど全てにおいて高い量力を発揮し史上最高のMFと名高い鉄人。その実力はディエゴ・マラドーナが認めるほど。

1983-94シーズンのDFBポカールの準優勝に貢献。決勝の相手がバイエルン・ミュンヘンでありその活躍によってバイエルンの強奪リストに載り実際に強奪されたとみられている。

キャプテンとして1990年のワールドカップを優勝に導いた。1991年のバロンドーラー。

ユルゲン・クリンスマンとは犬猿の仲と言われているがマテウスがクリンスマンを一方的に敵視しているだけである。自身が負傷で代表離脱中にクリンスマンがキャプテンを務め、ザマーがマテウスの代理でリベロを務めた結果「クリンスマンは自分を代表からハブにするつもりだ」とか宣うなど数々の攻撃をクリンスマンに仕掛ける。しかしどの攻撃にもクリンスマンはまともに相手をすることはなかった。なんなら「尊敬している」と言われる始末。

現在はバイエルン・ミュンヘンのブランディング・アンバサダーを務める。

 

アンドレアス・ブレーメ

前所属:カイザースラウテルン

所属年:1986-88

積極的な攻撃参加と正確なクロスボールの供給を得意とするドイツ屈指のPK・FKキッカー。

カイザースラウテルンで頭角を現した結果出る杭は引っこ抜いて自分のものにするバイエルンに強奪された。バイエルンで活躍した後当時隆盛を極めていたセリエAのインテルに移籍、マテウスとクリンスマンと共にドイツ・トリオと称された。

 

シュテファン・ロイター

前所属:ニュルンベルク

所属年:1988-91

1982年にニュルンベルクの下部組織に入団。1984年に18歳でトップチームに昇格し活躍。1988年チームメイトのローラント・グラハマーとバーターでバイエルンに引っこ抜かれた。1988-89シーズンからブンデス2連覇に貢献した後1991年スターが集まるリーグのセリエA・ユヴェントスに去っていったが1シーズンでボルシア・ドルトムントに移籍しドイツ復帰。キャリア晩年は膝のケガに悩まされるかったが主力選手としてタイトル獲得に貢献した。

 

ローランド・グラハマー

前所属:ニュルンベルク

所属年:1988-94

前述通りロイターとバーターでバイエルンに引っこ抜かれた選手。1994年まで所属したがケガの影響でその年で引退した。

 

ユルゲン・コーラー

前所属:ケルン

所属年:1989-91

世界最高のストッパの異名で知られる名DF。1986年に西ドイツ代表に選出。1987年にケルンへ移籍。クリストフ・ダウム監督の指導により着実に評価を高めた結果1989年にバイエルンに強奪され、着実にドイツを代表する選手へと成長を遂げた。成長は国内に留まらずやはり当時の世界最高リーグセリエA・ユヴェントスに移籍した。当時の監督はマンツーマンディフェンスを重視するジョバンニ・トラパットーニ監督であり、全幅の信頼を獲得し92-93シーズンのUEFAカップ優勝に貢献し、セリエA最優秀外国人選手賞を受賞するなど世界最高のストッパーの地位を確固たるものとした。

1990ワールドカップの優勝に貢献した。

 

シュテファン・エッフェンベルク

前所属:ボルシアMG

所属年:1990-92、1998-02

中盤の底の位置からのゲームメイクが得意な虎。長短の精度の高いパス供給を武器にボルシアMGで活躍していたら1990年にバイエルンに持っていかれた。2年間で19ゴール。1992年やっぱり隆盛を極めるセリエA(フィオレンティーナ)に去っていった。94年MGに帰還。98年バイエルンに再強奪される。主将を務めカンプ・ノウの悲劇を経験。2001年のCLに優勝に貢献し2002年ヴォルフスブルクに去っていった。

 

ブライアン・ラウドルップ

前所属:バイエル・ユルディンケン

所属年:1990-92

地元デンマークのクラブブレンビーIFで頭角を現し1989年バイエル・ユルディンゲンに移籍。1シーズンで当時のブンデスリーガ最高額200万ポンドでバイエルンに強奪される。初年度の1990-91シーズンは1試合で2ゴール3アシストの活躍をするなどした。1992年のEUROにおいて準決勝オランダ戦で2アシストするなどして優勝に貢献。この時代はセリエAが隆盛を極めていたため1992年EURO優勝選手としての評価もあり、セリエAフィオレンティーナに強奪された。

兄は代表監督に不満タラタラで1992EUROへの出場を拒否したが、自身は良い子だったので優勝の栄光をつかみ取る。ある意味兄より優れた弟。

 

メーメット・ショル

前所属:カールスルーエ

所属年:1992-2007

カールスルーエの下部組織上がりで1989年に19歳でトップチームデビューを果たす。攻撃的MFとして活躍し、1992年バイエルンに強奪される。2000年ドイツ年間最優秀選手賞を受賞。1998ワールドカップはベテラン中心の構成だったため落選するが2000EUROには選出。過去最低と酷評されるドイツ代表のなかで唯一活躍した。15年長くバイエルンに在籍し、カールスルーエ時代もチームメイトだったオリバー・カーンと共に15タイトルの獲得に貢献した。

 

オリバー・カーン

前所属:カールスルーエ

所属年:1994-2008

ドイツサッカー界で最も多くのタイトルを獲得した選手の1人であり、ゼップ・マイヤーやハラルト・シューマッハーらと共にドイツサッカー史に残る名GKの1人でもある。

少年期はクラブチームの加入テストにことごとく落ち、カールスルーエに所属しても正GKになるまで数年がかかるなどの苦労人であったが、リーガやUEFAカップの活躍が認められてバイエルンに強奪される。移籍初年度は膝の負傷で棒に振ったが、翌1995-96シーズンからコンスタントに高水準のパフォーマンスを披露。当時のGKコーチゼップ・マイヤーの指導もありワールドクラスのGKに成長し4年連続で欧州最優秀GKに選出された。

ワールドカップには1994年から4回連続で出場したが1994年はボド・イルクナー、1998年はアンドレアス・ケプケ、2006年はイェンス・レーマンと同じ正解最高峰レベルのライバルキーパーに正守護神の座を奪われ正守護神として出場できたのは2002年のみ。それでも2006年は3位決定戦で正守護神を務め3位入賞に貢献した。

有名なエピソードとして子供相手でも手を抜かないエピソードがありチャリティイベントで子供がカーンからゴールを決めた数だけ寄付金が増えるというものに対しカーンは全てのシュートをセーブした。カーンはシュートした人数分の寄付金をポケットマネーで寄付したという。

現在はドイツサッカーに対するご意見番としてたびたび記者に意見を求められている。

 

チリアコ・スフォルツァ

前所属:カイザースラウテルン

所属年:1995-96、2000-02

1990年代から2000年代初頭のスイスを代表するスイス最高のMF。ポジションは攻撃的MF。リベロも可能。1990年から93年まで在籍したスイス・グラスホッパーでリーグ優勝に貢献。93年7月ドイツ・カイザースラウテルンへ移籍。無名の選手ながら選手としての名声を得始め、93-94シーズンのバイエルン・ミュンヘン戦の勝利に貢献。そのせいでバイエルンに目を付けられる。1995年夏、とうとうバイエルンに捕獲された。最初のシーズンはUEFAカップ優勝に貢献。1シーズンでスターリーグセリエA(インテル)に去る。しかし精彩を欠きスターにはなれなかったので1シーズンでカイザースラウテルンに帰還。97-98シーズンはリベロとしてもプレーし2部から昇格したばかりのカイザースラウテルンをリーグ優勝に導く。2000年夏、退団したローター・マテウスの後釜として強奪される。95-96シーズンほどの活躍は出来ず2002年夏にまたカイザースラウテルンへ移籍。好調なプレーを披露で復調を証明しドイツサッカー誌「キッカー」のカムバック賞に選ばれるが選ばれた後不調に陥り2005年末に解雇され引退。引退後は指導者に転じる。

 

アンドレアス・ヘルツォーク

前所属:ヴェルダー・ブレーメン

所属年:1995-96

オーストリア代表の最多出場記録を保持するオーストリアを代表するプレイヤー。左利きのゲームメーカであることから異名はアルプスのマラドーナ。

1986年母国のクラブラピード・ウィーンでプロキャリアスタート。徐々に頭角を現し1989年からゲームメーカーのレギュラーを勝ち取り、足元の繊細な技術を土台とした高い得点能力とパスセンスで創造性あふれるプレーを披露。結果ヨーロッパの強豪の多くが獲得を狙うが隣国のドイツの地でヴェルダー・ブレーメンへ入団。初年度からレギュラーとして活躍しリーグ優勝とカップ優勝の2冠に貢献。ドイツ大衆誌「ビルド」はヘルツォークはドイツ語で公爵を意味することから「皇帝ではない公爵の誕生」と表した。やがてアルプスのマラドーナの異名を付けられた頃の1995年バイエルンに強奪された。UEFAカップ優勝に貢献するがクラブに馴染めず。1シーズンでブレーメンに復帰した。その後オーストリアに帰国した後アメリカでプレーして現役引退。引退後は指導者に転じ2018年から2年間イスラエル代表を指揮した。

 

トーマス・シュトルンツ

前所属:デュースブルク・ユース、シュトゥットガルト

所属年:1989-92、1995-00

ドイツはデュースブルク出身の選手。ユース期に地元クラブのデュースブルクからバイエルンに強奪される。1989年トップチームデビュー。89-90シーズンのリーグ優勝に貢献し1990年代表デビューも果たす。92年からシュトゥットガルトで3年間プレーした後、再びバイエルンに強奪される。バイエルンに復帰してからはリーグ、国内カップ、UEFAカップなど数多くのタイトル獲得に貢献。晩年は怪我で満足に出場できず00-01シーズン中に引退。引退後はドイツクラブのゼネラルマネージャーを経験。1996EURO優勝メンバー。

 

マリオ・バスラー

前所属:ブレーメン

所属年:1996-99

強烈なシュートやスピードのあるドリブルを得意とする攻撃的MF。マリオの名の宿命なのか愛称はスーパーマリオ。

1987年、カイザースラウテルンでプロキャリアをスタートする。その後ロット・ヴァイス・エッセン、ヘルタ・ベルリンを経て1993年ヴェルダー・ブレーメンに移籍。94-95シーズンにはリーグ得点王に輝きバイエルンに目を付けられ1年後1996年にバイエルンに強奪された。カンプ・ノウの悲劇でゴールを決めた。

ピッチ外では奔放な性格で数々の過激発言を連発。極度のヘビースモーカーで国外遠征を「機内で喫煙出来ないなら帯同しない」と発言。また引退後指導者に転じるが「自分にライセンスは必要ない」とDFBが認める指導者ライセンスを獲得せずに指導者を始める。しかし過激発言でフロントと揉め事を起こしまくり1、2年でクラブを転々とし2012年以降監督経験はない。

 

エウベル

前所属:シュトゥットガルト

所属年:1997-03

ブラジルのFW。ブラジルのロンドリーナでキャリアスタート。91年スイス・グラスホッパーに移籍しヨーロッパ上陸。ゴールを量産し1994年4大リーグドイツのシュトゥットガルトに移籍。シュトゥットガルトでもゴールを量産。結果1997年にバイエルンに強奪される。バイエルンでもゴールを量産し02-03シーズンの得点王に輝き。ブンデスリーガ外国人最多得点記録を更新した。後にクラウディオ・ピサーロに抜かれる。2003年オリンピック・リヨンに移籍以降怪我の影響で得点力は鳴りを潜めてしまった。2006年引退。

代表はロマーリオやロナウドの当代最強のアタッカーの存在もあり招集は少なかった。

現在はバイエルン・ミュンヘンのブランディング・アンバサダーを務める。

 

アリ・ダエイ

前所属:アルミニア・ビーレフェルト

所属年:1998-99

イランの英雄。国際Aマッチ149試合に出場し世界記録となっている通算109ゴールを決めた。恵まれた体格と高い跳躍力で高い打点から打ち下ろすヘディングを得意としペルシアン・タワーの異名を持つ。

1993年イラン代表デビュー。1994ワールドカップアジア最終予選において予選得点王になる活躍からジュビロ磐田と契約するもイランが出国許可を出さなかったせいで移籍が破断になったと言われている。1996アジアカップで得点王になり、1997年ドイツに飛躍。ビーレフェルトでの活躍と1998ワールドカップの活躍もあってバイエルン史上初のイラン人選手として強奪される。1シーズンのみの在籍であったがリーグ優勝を経験している。引退後は監督業を始め2014年にはAFC初代殿堂入りを果たす。

世界記録の代表通算109ゴールはもうすぐクリスティアーノ・ロナウドに抜かされると言われている。

 

イェンス・イェレミース

前所属:1860ミュンヘン

所属年:1998-2006

1980年、6歳の時に地元クラブのモトール・ゲルリッツ・ユースでキャリアスタート。1986年、12歳の時にディナモ・ドレスデン・ユースに移籍。1994年トップチームデビュー。1995年1860ミュンヘンに移籍する。3シーズン在籍した後、同都市のライバルの芽を摘み取りたいバイエルン・ミュンヘンが強奪。在籍中CL優勝、6度のリーグ優勝、4度のカップ優勝に貢献。2006年に現役引退し代理人業界に身を転じる。2002日本ワールドカップ準優勝メンバー。

 

トーマス・リンケ

前所属:シャルケ

所属年:1998-2005

1997年に地元クラブのロボトロン・ゼンメルダでキャリアスタート。1983年にロートヴァイス・エアフルトに移籍。1992年にシャルケに移籍。1996年に27歳でドイツ代表に招集される。1997年のUEFAカップ優勝を経験。1998年にバイエルンに強奪される。7年バイエルンに在籍し数々のタイトルの獲得を経験。2005年ザルツブルクに移籍するが2007年何故かバイエルンのリザーブチームに移籍してくる。ザルツブルクのスポーツディレクターのアシスタントを務めながらサッカーキャリアを続け2008年現役引退。2002日本ワールドカップ準優勝メンバー。