私は組手修練(稽古)を行う際、これまでの経験、研究の中から導き出した、組手のための原理・原則(理合)を活用している。否、私にとって組手修練(稽古)は、原理・原則通りに動く事、かつ原理・原則を見つけ出す事である。また原理・原則を検証する作業でもある。
断っておくが、私が考える空手武道においては「戦うのための原理原則(理合)」をより大きく括り、理法の中に組み入れている。例えば、物理の原理原則は「自然の理法」、心の原理原則は「心の理法(心法)」、身体の原理原則は「身体の理法」というように。その他、「間の理法」として、間合い、機先、位置取り、などを纏めている。その他、「技の理法」として、中心取りや自他一体の理法、などを纏めたい。また、「道の理法」なども考究中である。全て、未完ではあるが、なんとかまとめ上げたい。
さて、これまで見てきた空手家、門下生のほとんどが、相手に勝つ事、また負けないことを強く意識していたように感じる(何も考えていない人も多いように思う)。だが、それは低い志、低い次元の意識である。そこに技術はあっても技能はない。
「技能」とは原理・原則をより善く実践する能力だ。ようやく理解できた。武術であれ、格闘技であれ、本来、技術を磨くものであるのみならず、技術をより善く運用する技能を体得、磨くものである。だからこそ、より高いレベルの技能を発揮するために、より高い技術の獲得が必要になる。やがて技術と技能が窮まり、自他一体の境地を悟る時、「無念無想による戦いの理法」が措定される。それが斯道の達人の境地であろう。
今一度、原点に立ち戻りたい。我が組手修練は、勝つことを目指すことでもなく、負けないことを目指すことでもない。それは、原理・原則を踏み行い、かつ新しい原理・原則を導き出す訓練である。そして、その訓練の中から、自分自身を信じ抜くための叡智と自尊心を得ることを真の目的としたい。もし、勝つ、負けないとの意識が必要だとしたら、それは迷いが生じた時のカンフル剤ぐらいの程度だろう。
今、自らに尋ね、言い聞かせる。お前は原理・原則と一体化することの心地よさが想像できるか。できるなら、先ず以って、原理・原則を踏み行え。お前が求めている、道を楽しむとは、そういうことなのだ。
だが、皆が私の直感に共感しなければ、私の周りには人がいなくなるかもしれない。だが、仮にそうなったとしても、一人ぐらいは私と一緒に道を求める仲間はいるはずだ。その一人とやると思えば、不安は消え、そして私は私の直感を信じることができる。