良い審査会だった。皆の成長が見られた。秋吉師範代に感謝したい。いつもありがとう。閉会の総評で、嬉しさのあまり、馬鹿正直に思いを吐露してしまった、60歳近くにになっても、高校生の頃のままだと、自分の青臭さが恥ずかしい…。
閉会のスピーチでは、あえて武道を強調している。現在、わが道場の修練形態はスポーツとは全く異なる。実は、現在の増田道場の修練形態は、極真空手の基本と型だけを残し、ここ1年でがらりと変わった(組手法のみを変えただけだが、私自身の意識がガラリと変わった)。そして、以前を振り返れば、これまでの修練形態はスポーツ的だったと感じている。もちろん、そういえば語弊があることは必至だと思う。だが、そのように私がいうからと言って、「スポーツと武道は別物で、武道の方が素晴らしい」というような論に、私が与しているわけではない。ゆえに、以下のことを述べておかなければならない。
スポーツと武道、「ゲーム(競技)を基盤とするもの」と「武術(戦闘技能と技能養成)を基盤とするもの」としての違いはあるだろう。だが、それぞれの核(中心)の部分に、スポーツには「自他の関係性を楽しむこと」、武道には「自他の関係性の中にあって、信じ抜ける自己(心身)を確立すること」という理念がある、と私は考えている。
そのように考えれば、スポーツと武道は現代社会において、とても親和性が高く、かつ協働できるものだと思っている。なぜなら、スポーツと武道、その核に内在すると思われる2つ鍵概念、その両方を体認する能力のある人間が幸福と自由を実現し、かつ享受できる、と思うからだ。そして、そのような人間が増えることが社会に益をもたらすと思うからである。
本日、わが道場生の頑張る姿を見て、いつか私の考えを理解する人が出て来ると、ほんの僅かながら期待している(早く、親御さんにその姿を映像で見せたい)。
繰り返すが、自他の関係性の中で、自己を生かし他者を活かす。それが武道の究極である。幕末、剣と禅を究めた山岡鉄舟という武人の言葉に「心の外に刀無し」というものがある。不遜だが、先達の感得したことを、さらに推し進めれば、「共に在ること」を実感し、真に不動の自己を確立すること。ここでいう不動の自己とは、決して変化しない自己ではない。むしろ、絶えず変化しながらも、変わらない自己である。(言葉で表現すれば、論理的に矛盾するが…)そして人類の平和共存を希求し、その実現に努力しようと働く「叡智」が武道の理念に内在していなければならない。そして、それはスポーツの理念にも内在するものだ、と私は考えている。現在、日本武道は迷路の中だ(良くも悪くも、社会のあり方自体が混迷しているからだろう)。私は今、もう一度原点に立ち戻り、理念を育てて行きたい、と考えている。また、そのことを伝えるために、今、あえて武道を唱えている。
【蛇足】
気がついたら、話が五分を超えてしまった。「話が長い」とお叱りを受けそうだ。最後、心の中で「巻き」を出した(笑い)。自分のことを馬鹿正直と言ったことと矛盾するかもしれないが、仕事だと思って話している(馬鹿正直に仕事をしている)。
喋らない方が、門下生が増えるかもしれない。私の仕事の定義が間違っているのだろう。だが、本当の門下生、弟子とは、共に理想を語り合える友だ、と思っている。私は、我が子に対してもそうだ。そんな友に本当の声を届けたい。そう思っている。すでに空手を始めて47年ほど経った。長い年月が経過したが、中々、人間は変われないようだ。まだ修行が足りない。
しかし、私が空手に厳しいのは、極真空手に高い理想と志を持っているからだ。これは変えられない。じきにいなくなるだろう。その時まで、もう少し頑張りたい。「みんな、本当にごめんね」