闘争の倫理(大西鐵之祐) | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

闘争の倫理(大西鐵之祐)

〜ブックカバーチヤレンジ第4回より

 

【人間の内側から顕れてくる意味】

 私にはラグビーの経験はないが、空手選手時代に仲良くした友人がラグビー選手だった。彼は明治大学のラグビー部出身で、NECのラグビー部で監督を務めたこともある。現在はラグビートップリーグ、日野ドルフィンズの監督である。

 その縁もあってか、ラグビーの試合は新日鉄釜石と神戸製鋼が鎬を削っていた頃から見ている。だが、ルールがよくわからなかった。それがわかるようになったのは、新日鉄釜石の7連覇から数十年以上も経ったワールドカップラグビー日本大会の時だ。つまり昨年のことである。 

 おそらくこの本は、ラクビーをやっている人達も読んでいないと思う(失礼)。それは、ラグビー観が異なるだろうし、倫理などというのは堅苦しいからだと思っている。だが、この本に書かれている大西鐵之祐の思想は、ラグビーの戦術的なことより、大事なことだ。その大事なこととは、ラグビーやスポーツの社会的意義を説き、かつ、ラグビーをやることの根源的な意味を問うことだ。なぜ、ラグビーをすることの根源的な意味を問うことが大事であるか。それは戦略的なことであり、引いてはラグビーの社会的存在価値を高めることにつながるからである。

 

 勿論「ラグビーをやることの意味などない」あるいは「ラクビーをやることの意味は人それぞれだ」という向きもあるに違いない。だが「ラグビーというゲームを行うことによって、人間の内側から顕れてくる意味がある」と私は言いたい。その「内側から顕れてくる意味」の中にルールは異なっても、極真空手とラグビーの共通項がある、と私は感じる。「その共通項とはなんだ」と聞きたい人のために書いておく。

 

【極真空手とラグビーの共通項】

 その共通項とは、実は極真空手にあるものではない(ないから分裂した)。それは極真空手の競技試合に人生を賭けた増田 章があって欲しいと希求した競技哲学だ、と言っても過言ではない(もしかすると、ラグビーにも希薄だったのかもしれない)。ないからこそ希求し、この本と出会ったのであろう。しかし、読めば読むほど、極真空手や他の武道の欠陥が目についた。私がいう共通項とは、大西鐵之祐先生がラグビーに見出したロマン、また増田章が極真空手に求めたロマンだ、と言っても良い。それが「闘争の倫理」だと言ったら、大西先生のお弟子さんたちにお叱りを受けるだろうか。

 

【「自己目的的行動」「ルールの前に人間あり」「自己コントロール」】

 さて、大西先生のロマン(私が思うところの)を表すキーワードがいくつかあるが、その中からいくつかあげておきたい。まず「自己目的的行動」次に「ルールの前に人間あり」そして「自己コントロール」だ。それらのキーワードについて、少し説明したい。

 

 まず「自己目的的行動」だが、意訳すれば「それをやる目的(行動目的)が外部の価値観に左右されているのではなく、自己の内面にある価値観(良知と言いたい)によって判断されること」と私は理解したい。20代の頃、「自己目的的行動」という言葉が難しかった。

 

 次に「ルールの前に人間あり」というキーワードだが、イギリスで作られたラグビーというスポーツは「ラグビーの理念のためにはルールは変えても良い」という考え方らしい(私の解釈だが…)。補足すれば、ラグビーというスポーツは「ラグビーのあるべき姿」が、競技ルールの前に問題とされているようだ。この部分が、実は私が苦しんできたテーマの答えでもある。

 

 誤解を恐れずに言えば、これまで「できそこないのチャンピオンを作るルールよりも、空手道として、あるべき姿を前提として、ルールは変えても良い、むしろ変えるべきだ」と私は考えてきた。その考えが非現実で非合理、非常識なものではないということが、イングランドで生まれたラグビーというスポーツの歴史を学んで理解できた。そして幼い頃の私の直感が間違いではないと確信している。

 

 最後の「自己コントロール」については簡単にのべるにとどめたい。実はこの部分がスポーツとしてのラグビーと武道としての極真空手の最も親和性のある部分かもしれない。しかし、それが深く自覚されていない。本当は一番重要な部分だと思うが、機会を待ちたい。私の理解は「人間がコントロールできない状況になるということを把握しつつ、自己をコントロールすることが大事だ」ということである。例えば、制御不能の状況を承知の上で、だからこそ、そのような局面に陥る前に、ある種の予測を行い、自己を制御する。そのような判断力、行動力の訓練(知行合一の訓練)としての側面がラグビーというスポーツにはある。大西鐵之祐先生はその部分を大事にしたいと述べていたのだと思う。これは、東日本大震災や新型コロナウイルス感染症の拡大に際しても重要な観点である。人類はそのような自己コントロールを念頭におかなければならないと思う。

 

 私の考え方は少数派にもならない考えかもしれない。だが日本では少数派という概念すらないような感がする。良い意味での討論、対立(戦う)という気概、感覚がまるでないかのようだ。だが、今年のはじめ、私の考え方を裏付けるかのような本に出会った。その本は、「ラグビーをひもとく〜反則でも笛を吹かない理由(リ・スンイル)」という新書だ。この本を全てのスポーツ愛好者にお勧めしたい。

 

【出版物(本)がもたらしてくれる、時空間を超えた人間との邂逅】 

 最後に先のワールドカップ大会では、私を始め多くの人がラグビーから元気や勇気をいただいた。ほんの少し前のことなのだが…。ところが、いまは新型コロナウイルス感染拡大の危機で日本のみならず世界中がストレスフルな状況になっている。改めて本当にラグビーからは多くのインスパイヤーを得た。あの時の感動が懐かしい。その感動を空手に生かすべく「今年こそは…」と準備をしていた。それが頓挫し、今後の見通しはと言えば、霧に覆われたままだ。今後、存続も困難かもしれない。正直言えば、本など読んでいるときではないし、こんなことを書いている状況ではない。故にブックカバーチャレンジは適当に行いたい。適当というのは、自分の好きなように変更してやるということである。1日一冊で7日間というルールは守らない。数千冊ある蔵書の中から、特に思い出深いものだけを掲載する。コメントはそのときの気持ちの書きなぐりだ。

 

 自分勝手だが、ルールは私流に変更する。今回のコラムのように大事なのはルールではなく「ルールの前に人間あり」だ。「出版物(本)がもたらしてくれる、時空間を超えた人間との邂逅」という文化を見直すことが、より大切なことだと理解しているから…。自分勝手で御免なさい。

 本当は書評などを読んだり、書いたりすることが大好きな私ではある。だが余裕がない。体調が悪く、また突発的な問題が生じているのだ。とても憂鬱である。 

 


 

 

 

 

 

 

 

【このブックカバーチャレンジへの参加方法】

・好きな本を1日1冊、7日間投稿する

・アップするのは表紙画像だけでよく、本についての説明を書く必要はない(書いている人もいる)

・毎回、投稿するごとに、1人のFB友達を招待して、このチャレンジへの参加をお願いする

・(追加されたルールだそうですが)参加を依頼された人は、気分次第で、スルーするのも次の人を招待しないのもOK