反則行為の判定に関する異議申し立てについて〜結論 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

 交流試合の後、試合における反則判定について検討してきました。本サイトには、私の殴り書きを載せました。本ブログはいつもいうように私のメモ書きです。また、本サイトは増田の思想を道場生に理解してもらうためのものです。

 とはいうものの、全ての道場生に、私の考えが理解されているとは思えません。それは、あまりに殴り書きだからでしょう。将来、私の武道哲学と理論をまとめたいと思っています。それは、私が命懸けでやりたいことです。今は、必死に耐えながら実験を繰り返しています。

 

 

 

【反則行為の判定に関する異議申し立てについて】

 交流試合から約3週間、反則行為の判定に関する異議申し立てについて検討してきました。その事に際し、私は有段者討議会を設置し、審判員、他に試合映像を確認してもらいました。また、荻野審判委員長にまとめ役を要請しました。

   私の基本的な考えは、映像を見て、誰が見ても誤審が明らかな場合は、審判を説得し、誤審を認めさせるというものでしたが、ことは簡単ではありませんでした。

   その結果、映像による判定に関して意見が分かれました。映像を見ての判定が分かれたのです。同時に反則に関する考え方の相違が浮き彫りになりました。

    団体を主宰する私の立場としては、映像を見ても意見が分かれ、かつ審判が自分の目視に信念がある場合は、現場の審判の判定を覆すことはしない、というものです。

   因みに私が意見の取りまとめを要請した荻野審判長の見解は、誤審があり、荻野氏が審判を行えば、引き分けというものでした。それは間違いではないかもしれませんが、映像を見ての判断です。荻野審判長にも経験があると思いますが、いかに近くで試合を見ていても、選手の近くで試合を見るのとは異なるということです。

【その経験の中で】

 話は脱線しますが、私には誰よりも多いと思われる極真空手の試合経験があります。その経験の中で、誤審と思われる判定が多々ありました。また、信頼できる選手の意見も現場での判断と映像による判断とでは異なる、ということを記憶しています。極真空手の試合では現場の雰囲気によって見方が変わるということが多くありました。当の選手(私)にはダメージがなく、試合をコントロールしていると思っていても、審判には周りには異なる風に写っていたのでしょう。そのようなことが起こるのは、極真空手の試合の判定方法は主観に頼る面が大きいからです。私には、その主観を信用することができません。私の空手、私のレベルを理解できない人が審判などできるわけがないのです。

 私は著書で、それを「美人コンテスト」と批判しました。大山先生に対する冒涜と思われるでしょうが、極真空手の試合にはそのような「プロレス的」「ショー的」な感覚が否めません。もちろん、「プロレス」や「ショー」の否定ではありません。また、それらには意味や目的があります。ゆえに極真空手の判定方法にも、なんらかの意味や判定基準があるのだと思います。しかし、その基準が競技や武道として妥当な基準だとは思えません。私の空手家の人生は、それらの問題点を改正するために、人生を費やしてきたと言っても過言ではありません。それは、大変労力の必要な努力でした。また、その努力が報われてもいません。ゆえに、多くの人が「増田は無駄な努力をしている」「頭が悪いな」と言っていると思います。

 そのような声を聞くたびに、私は「全てを捨て、独り、我が道を往く」と思ったものでした。幸いに、こんな私に協力してくれる人たちが身近にいてくれたおかげで、今日まで独りにならずに生きてこられました。また、直接打撃制の空手競技のルールに変更を加え、新しい競技を創るという試みを行ってきました。

 

【今回の問題は】

 今回の問題は、TS方式(ヒッティング・ベーシック)という新しい競技方法の実施と極真方式の競技の2種類を実施したことによる、現場の混乱というよりは、これまで私が改訂した極真方式の競技ルールに瑕疵があったと考えています。実は交流試合前に極真スタイルは従来のクラシックスタイルに戻すと、秋吉に伝えていました。しかし、それはあまりにも乱暴な指示でした(秋吉ごめん、もっと私に突っ込みを入れろ)。

 私は、どのように変えるか、秋吉に指示していませんでした。今回、競技規約を確認すると、私の道場では極真方式(極真スタイル)の競技の判定も基盤は点数表記にしていました。大まかにいえば、一本、技あり、有効、などの有効技のみならず、反則行為も点数化し、その獲得点数の多寡で優勢を判定するというものです。

 

 今回の交流試合では、完全ポイント制のTS方式(ヒッティング)の競技規程を急ぎ取りまとめ、試合を実施しました。大変な急ピッチの作業だったので、もう一つの競技方式の極真方式のルールを忘れていました。なぜなら、TS方式の競技も何年もかけ、何度も瑕疵を修正し続けていました。その修正は、数ヶ月まで続きました。

 要するに、極真方式を見直す時間がなかったのです。今回の件があり、3週間の間、多くの思考実験を行いました。その結果、瑕疵が見つかりました。おそらく、瑕疵の発見とその修正は、本来、どんな分野でも行わなければならないことだと思っています。それを行わない、また修正が多いと混乱する、などいう考えもあるでしょう。しかし、そのような考え方は、自己中心的な考え方です。また怠惰な考え方です。私も面倒臭いのです。昔のまま何も変わらないことが良いという向きが理解できません。もしそれが本当ならば、技術革新や進化などが起こるわけはないと思います。理解できるのは、私もそうですが、変化に対応して行くことには労力が必要だということ。面倒臭いということです。

 しかし、より良いものを追求するということは、面倒臭いことです。仕事とは、そのような面倒臭いことを誰よりも高いレベルで行い、人に感謝されることだと思います。私もそのような仕事をしたいと考えていますが、あまりにも理想が高く、時間とエネルギーがたりません。人はその姿を愚かと思うのでしょう。

 今私は、私の内側からの声に従い、それをやり切らなければならないと思っています。まだ、道半ばです。ですが残された時間が僅かです。それでも前に進みます。そして必ず、私の仕事を理解する人が出てくると信じます。

 

【団体の長としての結論】

 さて、話を戻しますが、私の団体の長としての結論と決定は、異議申し立ては受け入れるが審判の判断を覆さないということです。しかしながら、十分な討議を行い団体および競技会の基盤となっているプロトコルやコードの瑕疵を発見し、それを修正しました。具体的には競技規程の改訂です。怪我の功名と言っては語弊があるかもしれませんが、今回の討議と検討の意義は少なからずありました。

 今回、競技規程の改訂に併せて、私の空手団体としても理念と目的、そして手段の見直し、また、修練システムの見直しです。端的にいえば、競技規程のあり方が、団体の理念と修練体系と連携するように修正、明確化します。

 その結果を端的に言えば、今後「異議申し立て」は認めないことにします。その代わり、審判長の意見を取り入れ、イエローカードやレッドカードの告知の前に数回の「口頭注意」の権限を与えます。その権限によって、主審に互いの選手が、純粋に空手技術と技能を高め合う状況を維持できるように管理する仕事を与えます。それに伴い、イエローカードは2枚の告知は、伝統的な極真方式の「減点1」に相当します。また、レッドカードは「減点2」失格と考えて良いです。また、一本や技有りなどのダメージの判定はそのままとしながらも、旗判定基準を増田独自のものに設定します。その旗判定基準を理解、承認できる選手のみに試合に出ることを認めます。

【審判委員会と有段者討議会を創設】

 以上の結論と決定は、増田道場の空手理論、思想と繋がりますから、それを理解できないものは、道場から除名も考えています。ただし、私はあと数年で引退しますから、後を継ぐものが、私と異なる考え、運営方法を持つなら、早めに進言してください。また、審判の判定基準の統一のため、審判委員会と有段者討議会を創設します。さらに有段者が競技のことを深く理解することは、空手道の上達に必要だと思っています。もちろん、競技は空手道修行の一手段だと考え、他の修行と分けて考える人もいるかもしれません。しかし、拓心武道(増田武道)では、全ては一つの道に繋がると考えています。さらに、試合の経験もないものが、戦いのことを言うのは笑止千万ものだと思っています(こんな言い方はよくないと思いますが)。

 さらに言えば、昇級、昇段の認定にはTS方式の試合を行い、それに勝てないような技術と技能の者には段位を認定しないとい言うことです。また、TS方式の試合で勝てない者には極真方式の試合も行わせないと言うものです。このことに関しては、もっと丁寧な説明が必要だと言われるかもしれません。しかし、TS方式の3種類の競技方法によって得る、技術や技能は、極真方式の競技で勝つための十分条件ではありませんが、必要条件だと考えています。また、それらは極真空手の古典的な競技にとどまらず、空手家として必要な技術と技能の体得に役立ちます。これまで私の道場で段位認定を受けた者は、このことを深く認識し、自己の空手技術と技能を更新してください。更新しない者は、残念ながら私と同じ空手道を歩む者ではありません。

 

【自己超越】

 最後に、私の考える空手道は「自己超越の道」です。それは、自分というものをしっかりと掴み取る生き方です。それは他者との関わりを通じ、遠ざかっていく自分(自我)を乗り越える行為です。人は、自分という自我を乗り越えようと必死に生きる時、その自我と本当の自分(自己)が一致する瞬間があります。それが自己存在、そして「生きる」ということの本当の在り方なのです。

 繰り返しますが私の道場の有段者には、自分の体得した技術や技能、そして思想を更新してもらいたいと思います。私は、空手に限らず、人間は死ぬまで自己を更新し続けなければならないものだと思っています。それが我が団体の理念です。