補足〜小論/極真空手の試合法における反則判定について | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

補足〜小論/極真空手の試合法における反則判定について

 

 ここ数日間、体調不良の中、この問題の検討で30時間以上を使った。ここまでやったら、もう少し徹底して考え、それを記録しておきたい。今回の顔面突きの反則の判定の問題は極真方式の競技試合において起こったことである。

 私は、経験豊富な極真空手の審判、また格闘技の審判に意見を求めたが。そして、経験豊富であればあるほど、ダメージのない顔面突きは反則を取らないという意見だった。しかしながら、考えて見て欲しい、極真空手の愛好者はそれを真似する流派も含めれば、世界中に100万人はいるであろう。そして、それらが似たような競技試合を行っているはずだ。また、それを行う際、顔面突きの反則は、私の道場ほど厳密には取らないはずである。

 

 その前提で、想像してみる。一体、その中で顔面突きの反則が起こる割合はどのくらいであろうか。私の想像だが、1割もないはずだ。もしそれが、当たっていれば、それがどのようなことを意味するか、わかるだろうか。もし、私が空手道の世界組織の役員だったら、世界中の空手選手の反則がどのような状況でどのような選手がどのように反則を取られるか、また怪我の実態などのデータを集める。それが、必ず組織の「知の力」となる。脱線するが、最終的には「知の力」が物をいう、と私は考えている。だから、子供達に「考えろ」そして「読書し(情報を集め)」それについて「検証しておけ(書け)」と言いたい。それが将来の自分の人生を左右する。

 話を戻せば、現時点では、私の想像であるが、おそらく同じような傾向を有する状況、そして同じような傾向を有する選手が、同じように反則を取られていると思う。つまり、結論を急げば、反則の原因は、選手の組手に対する意識と競技ルールに対する、双方の選手の戦術の選択が主原因なのである。もちろん、相手との身長差がある場合、相手が頭を下げ、間合いを詰めてくるといった条件も、そこには傾向として見られるかもそれない。しかし、私も含めてだが、無差別で戦う極真空手の競技試合においては、そのような状況は珍しいことではない。最近は体重別で試合をするようになった。ゆえに身長差は少なくなったかもしれない。また、頭を下げて間合いを詰めて戦う戦い方を良くないという指導者も出てきた。実は極真の歴史上、そんな選手が増えた時期がある。それは極真空手の問題点でもあった、と私は思っている。にも関わらず、私は反則を犯したか、ということである。私だけではない、多くの選手が何らかの戦術の工夫をし、反則を避けて戦っていたに違いない。でなければ、顔面突きの反則だらけになってしまう。ただ、もしかすると海外の試合では、顔面突きの反則が多いのかもしれない。みんなマウスピースを着用するからだ。それでも、1割を超えるであろうか。その結果の意味するところは、やはり選手の意識が低いのだ。ただし、断っておくが、反則を犯す選手の問題のみならず、頭を下げ間合いを詰めて戦う選手の戦術にも反則を誘発するような面がある。ゆえに、そのことも指導しなければならないだろう。さらにいえば、このような問題が起こるのは極真空手の組手指導者の問題だと思っている。ゆえに、今回の問題は私の指導力の問題だということになる。補足を加えれば、審判にも、選手が反則を犯した場合、組手技術が未熟で余裕がないことが原因で犯した反則に関しては、その状況を理解してあげるような気持ちの余裕も必要である。反則を犯したものを者を単純に非難するような判定の仕方はよくない。ゆえに前回の小論で提案した、「口頭注意」と「指導注意」を効果的に用い、選手双方が反則行為に至らないよう誘導する仕組みが良いと思っている。今回のような、1割ほどの人間の意識と行為、問題で競技全体のイメージが左右されることもあると思う。これは反則行為に限ったことではない。私は今、自分の指導力の無さを強烈に嘆いている。

 

 話は変わるようだが、今回の交流試合では、極真方式の競技試合と併せて、完全ポイント制のヒッティング・ベーシックスタイルの競技を行った。良い意味で極真方式の競技試合の選手と比較できた。極真方式の競技試合も、拓心武道メソッド、すなわちヒッティングを稽古で体験している選手に関しては、素晴らしかった。なぜなら攻防が明確に見て取れたからである。あとは身体能力の向上という課題が見えた。また着目すべき点は、極真方式に対しヒッティングの競技試合では、怪我をした選手が10分の1だったことだ。

 我が道場の交流試合における選手の怪我は、道場生でもある鍼灸整骨院の先生がデータを取ってくれている。その先生は、鍼灸大学の教授で研究者でもあるから、毎回データを報告してくれるのだ。

 私は有り難いなと思っていたが、そのことが、今回のヒッティング競技の実験で役に立ったと思っている。今回のヒッティング競技では怪我が少なかった。ほぼゼロであった。そして、そのような視点で反則行為を見た場合、反則もゼロであっった。

【全ては選手の意識が決める】

 それは、優れた防具で安全性を確保していることが大きい。だが、それだけではないだろう。極真空手、百戦練磨の増田も防具をつけて、普段ヒッティングを行っているからわかる。防具をつけ、ポイントを意識すると、うかつに相手に近づくことができないのだ。また技も出せない。

 もちろん、前提は1発もポイントを取られず、自分の技は正確に決めようと意識するからである。それは防具とポイント制の「見えない効果」と言えるものだと思っている。その核心は、技術と技能向上の全ては選手の意識が決めるということだ、と確信している。また、同時にそれは意識しているルールの影響を強く受ける。それは社会における人間形成も同様だ。意味がわかるだろうか、人間も親の価値観、社会の法律、そして文化の影響を強く受ける。それらはある種、人間の意識を形成するプロトコル、ルールのようなものだ、と私は考えている。ゆえに教育とは、まず指導者側がプロトコル、ルールを絶えず見直し、かつ修正し、個人が自分自身の力で意識を変えていうように導かなければならないのだ。

 今回の問題は、審判の間違いではないかとの異議申立てがあるのだ。正直、ビデオ判定でも難しい。これ以上は、審判員と審判長の判断に任せたい。私はこの問題は、審判の意識の問題のみならず、選手の意識の問題、そして全道場生の意識の問題として捉えている。ゆえに時間を割いている。

【伝統的な極真だったら】

 確かに、荻野審判長がいうように、伝統的な極真だったら引き分けで、納得行くまで試合をさせたかもそいれない。だが、私の道場はルールを遵守する。しかし今回、そのルールが「あだ」になったかもしれない、と思っている。

 審判が悪いと断言することではなく、また選手が悪いと断言することでもなく、全ては私の競技規程の不十分さだったと反省している。ヒッティングの競技規程は競技の目的と理念が第1条に書かれている(おそらく読んでいる人は数人だろう、自分をピエロだと嘆いている)。競技者はその目的のために競技を行うと書いてある。今後は極真方式の競技規程も改訂する。

 ただし、テニスにしたって、どんなメジャーなスポーツにも発展途上時には誤審はあった。今回のことは話し合いで解決したい。

 

 今回の件に対する私の意見は遺言だ、と言ったら大袈裟でうざいと思われるだろう。だが、私の考えの中心にあるのは、審判も選手も、またボランティアスタッフ、応援者も含め、競技試合、ゲームとは、全ての人が協働し、競技という手段を通じ、高いレベルの技術と技能を創出することを楽しむことだと思って欲しい。言い換えれば、競技とは人間の可能性と尊厳を守り、それを高めるために協力し合うことだ、と言いたい。それが増田の考える武道(拓心武道)の思想、そして武道スポーツの理念である。さらに言えば、技を決めたり、反則を注意したり、勝つことを目指したり、負けて悔しがったり、全てがそこに至るための手段でありプロセスなのだ。また、その目的の実現を審判、選手、スタッフ、応援者全員が目指す。それがスポーツと武道競技の普遍性である。

 繰り返すが、前の小論で書いたように、私が考える競技は、理念の具現化を目指し、正確な技術と優れた技能を創出するという目的に行うものである。競技会という場、そして審判、スタッフ、選手、応援者、全てがチームである。過去に感じたことだが、自分の道場の選手に体験を積ませたい、また勝たせたいと、他団体の競技大会を利用するような考え方は、私は行わない。現在、極真会館とは友好団体であるし、選手の交流もあったほうが良いと思っているが、松井館長の組織を利用するようなことは考えていない。とにかく、松井館長の理念を理解し、それを共有した上で、できるならば極真空手が高まるように、斯界が発展するように協力し合いたい。もちろん、私のような小団体が大団体に協力するなど、笑止千万な話だとは思う。ゆえに私はマイペースを崩すつもりはない。誰に対しても。

 最後に、わがIBMA極真会館の道場生には、そのこと忘れ、目先の勝利だけを求めるようなことになってはいけないと言いたい。また、今回のことを機に、改めてなんのための競技なのかを道場生につたえたい。そして、ルールに不備があれば、これからも異議申立てを聞き入れたい。そして修正をしたい。ただし、みんな懸命にやっている。今回のことで道場生が私のどのような思いを持つかわからない。しかし、そんなことはどうでも良い。ただ私は、誰にも肩入れせずに、私は天(真理)を相手に行動していく。ゆえに選手や審判の意見とは異なる解決策を私は選ぶかもしれないということだけは言っておく。なぜなら、私がこの空手の創設者で責任者だからだ。だだし今回、審判員、審判委員長には苦労をかけている。感謝したい。

 

2019-7-1:一部加筆 

「それは防具とポイント制の「見えない効果」と言えるものだと思っている。その核心は、技術と技能向上の全ては選手の意識が決めるということだ、と確信している。また、同時にそれは意識しているルールの影響を強く受ける。それは社会における人間形成も同様だ。意味がわかるだろうか、人間も親の価値観、社会の法律、そして文化の影響を強く受ける。それらはある種、人間の意識を形成するプロトコル、ルールのようなものだ、と私は考えている。ゆえに教育とは、まず指導者側がプロトコル、ルールを絶えず見直し、かつ修正し、個人が自分自身の力で意識を変えていうように導かなければならないのだ」

 

「今回の件に対する私の意見は遺言だ、と言ったら大袈裟でうざいと思われるだろう。だが、私の考えの中心にあるのは、審判も選手も、またボランティアスタッフ、応援者も含め、競技試合、ゲームとは、全ての人が協働し、競技という手段を通じ、高いレベルの技術と技能を創出することを楽しむことだと思って欲しい。言い換えれば、競技とは人間の可能性と尊厳を守り、それを高めるために協力し合うことだ、と言いたい。それが増田の考える武道(拓心武道)の思想、そして武道スポーツの理念である」

 

「ただし、断っておくが、反則を犯す選手の問題のみならず、頭を下げ間合いを詰めて戦う選手の戦術にも反則を誘発するような面がある。ゆえに、そのことも指導しなければならないだろう。さらにいえば、このような問題が起こるのは極真空手の組手指導者の問題だと思っている。ゆえに、今回の問題は私の指導力の問題だということになる。補足を加えれば、審判にも、選手が反則を犯した場合、組手技術が未熟で余裕がないことが原因で犯した反則に関しては、その状況を理解してあげる気持ちの余裕も必要である。反則を犯したものを者を単純に非難するような判定の仕方はよくない。ゆえに前回の小論で提案した、「口頭注意」と「指導注意」を効果的に用い、選手双方が反則行為に至らないよう誘導する仕組みが良いと思っている」