孝行息子達 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
孝行息子達

孝行息子と言っても、私の肉親の事ではない。
27日の日曜日に昇段審査を受けた少年部と一般部の道場生達の事である。

受審した道場生全員が、伝統型、組手型、掛け組手(連続組手)という審査科目に真剣に取り組んでいた。(毎回そうだが)
因に、私の道場では数年前から、極真空手の伝統型のみならず、近年、極真空手の稽古のメインとなっている組手技を基本にした「組手型」というものを稽古に採用し、審査にもとりいれている。

断っておくが、私の道場の稽古カリキュラムは、組手技や組手が中心になっている訳ではない。伝統技3分の1、組手技3分の2という配分が一般的だ。

私の考えでは、伝統技の稽古をもっと行ないたいのだが、伝統技の稽古だけで組手を行なうと組手が力任せになる。また、防御技術も身につけないまま組手をすれば、偏狭な「根性論」の世界観が台頭して来る。(私は根性否定論者ではないが、押しつけの根性論には反対である)
それでは体力や体力がない人にとって極真空手はきつくなる。また、合理的な考え方が身に付かない。(極真空手は合理的という言葉を否定しているかのように見える。それは、完全な曲学阿世である)

私は体力に自信のない方、スポーツが苦手な方にこそ我が空手武道を身につけて欲しいと考えている。ゆえに、稽古カリキュラムの体系化並びに指導員の育成が主な仕事だ。(なかなか仕事が進まないが・・・)組手技に組手型を追加したのは、その一環である。


その意義は、「組手型」によって、極真空手が喪失した伝統技(極真空手の場合は、大山先生が修練した柔道や柔術、剛柔流の技などがそれにあたる)を稽古体系に復活させるためである。それによって、空手の特色を真に活かし、その可能性を拡げていく事にある。フリースタイル空手プロジェクトはその一環である。

さて、以上のような私の空手の理想を唱えるのは良いのだが、それを学ぶ方、教える指導員は大変である。何事も理想への道を行くのは、しんどいものである。それを我が道場生達はついてきてくれた。


少しずつだが、組手型も上達してきた。それに伴い、組手の仕方も上達してきたように思う。よく頑張った。

というものの、私の中には「まだまだ」という気持ちもある。しかし、私は自分を戒める。「少しずつ上達すれば良いのだ」「皆自分と同じと考えてはいけない」と。
そして、彼らが空手を始めた頃の状態を頭の中で思い浮かべるようにする。
そうすると、「皆、成長したじゃないか」「皆、上達したな」という思いが浮かんで来る。

私の道場生は、不器用で真面目なもの達が多い。
私は、そのような道場生が好きであり、誇りに思っている。

そのような彼らの晴れの場、節目の日が昇段審査である。本当は褒める事しかしたくないのだが、やはり少しだけ注意などしてしまう。その度に私は、自分に駄目だしをする。「またやったな」「駄目じゃないか」「良いところをみつけろ」というように。

しかし、指導者は理想を追求しなければならないというのが私の考えである。但し、その理想を押し付けてはいけないとも思っている。(本当は押し付けたい気持ちもあるが難しい・・・。人間は一人ひとり異なるので)
私の理想は固定されたものではなく、絶えず更新されていくものである。それが真の理想だ。その辺が道場生には理解できないところだろう。

猛スピードで理想に向かっていくという事は、猛スピードで自己を更新、刷新、変化させているのだ。つまり、ここで言う理想とは、誰もが思い描く理想とは異なる。(ただ、その中にも普遍性はある)

この日の弐段審査の部で、小川哲也君が受審した。小川君は、かって私の内弟子職員だった。現在、40歳、北海道で父親の会社を継いで頑張っている。

仕事の合間に増田道場の支部も開設していたが、ここ10年ぐらいは仕事が忙しく、稽古はあまりしていないだろうと考えていた。


小川君は今年40歳になった。彼の人生にも様々な事があったはずだ。その人生の節目、心機一転を図るため、20人組手への挑戦を決意したのだと思う。私の道場では、昇段審査における掛け組手の人数は、過度の負担をかけないよう年齢等により選択できるようになっている。
ゆえに20人というのは、本人の選択であり、弐段審査に必ずしも必要な科目ではない。また、私の道場では、組手の数より、その内容を重視する。故に組手の内容が悪ければ、再審査である。

私は「哲は大丈夫か?」と思っていた。そして、「片目をつむるか」と考えていた。しかし、その期待を彼は裏切った?
立派な昇段組手だった。40歳であれだけやれれば、大したものだ。そして、見ていた道場生に少なからず感銘を与えたのではないだろうか。
審判の荻野先生は、途中、胸が熱くなったと、審査後の食事会で語っていた。

実は私には、彼の気持ちが分かったつもりだ。(勘違いかもしれないが)
彼は今回、「俺は、増田の内弟子だった」「やわな組手をしてたまるか」「俺たちの時代の増田章は全然違っていた」という気持ちを持ちながら稽古を積んできたのだろう。

彼がいた頃、私の道場には、チャンピオンクラスが大勢いた。そんな当時、彼には悪いが彼は「補欠」のようなものだった。しかし、その後、その補欠が本当に増田道場のために尽力してくれた。私は、その事に感謝している。
そして、何よりうれしいのは、空手を続けてくれたこと。そして、また現場(道場)に戻ってきてくれた事である。

いつもの事だが、今回は本当に弟子から学んだ。極真空手と一般社会の普遍性が・・・。それは、「継続」の中に真の感動が生まれるという事。そして、「ひたむきさ」が感動の源泉だという事を・・・。孝行息子の小川君ありがとう。

(今回から昇段審査の組手の映像をIBMA極真会館のサイトにアップします。子供達の頑張っている姿を保護者の方にもご覧になって頂きたいと思っています。少し時間をいただきます。お待ち下さい)