「フリースタイル空手」IBMA極真会館の空手道 (草稿)  | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

今年に入って2回目のブログ更新である。
脚のリハビリがあるのと、他の雑務が多くなかなかブログを書く時間を捻出できなかった。本当にやることが山積している。
このブログも、その雑務の中の草稿を載せているだけである。しかし、それでも読者の皆さんにお伝えしたい。増田章は、時間に追われながら必死に仕事をしていると。
この草稿は、私が現在,製作を考えている空手道教本の草稿である。
この草稿を読まれた方が、私の構想をどのように捉えるかは自由であるが、いつも私は仕事に対し、遺作だと思って仕事に向かっている。そして、自分の仕事を振り返り、「また、駄作だった」「また、しくじった」と嘆いている。それでは、また・・・。

「フリースタイル空手」IBMA極真会館の空手道

【空手創世記】

空手には多様な流派が存在します。極真空手とは、大山倍達先生が創設した空手流派の代名詞です。

 

 

極真空手は、大山倍達先生が松濤館流と剛柔流の空手を基盤に、世界中の格闘技、武術から良いと思われる技を取り入れてできたものです。

 

 

 

 

大山倍達先生は修業時代、西洋のボクシング、ムエタイ、中国拳法、日本柔術、柔道などを体験したと伝えられています。

 

 

 

 

また、本来の空手にはなかった上段回し蹴りや下段回し蹴りは、ムエタイから取り入れたものだといわれています。

 

 

 

 

その他、極真空手の草創期には、首を掛けての膝蹴りや投げ技、また、肘打ちなど、殺傷能力の高い技が訓練されていました。また、大山倍達先生の残した著書を見れば、その技術が、沖縄の古流の空手や日本柔術等の影響を鮮明に受けていることが判明します。

 

 

 

 

つまり、極真空手とは、私が言うところの「フリースタイル空手」そのものなのです。ここで言う「フリースタイル空手」とは、あらゆる流派の技を包摂し融合していくこと。すなわちそれが「フリースタイル空手」の意味です。

 

 

 

 

草創期の極真空手は、直接打撃制の組手と試合方式を採用し、自らを「ダイナミック空手」と標榜しました。その意味は、生命のメカニズムのように、絶えず変化に対応しながら、自らを活かし続けていくという姿を言い表しているのだと考えます。

 

 

 

 

しかしながら、昨今その姿が徐々に変化に乏しく堕落に近い様相を示しているというのは、言い過ぎでしょうか。

 

 

本来の極真空手は、様々な武術、格闘技の技術を包摂、融合し、弱点を補完し成長していくという姿と理念(理想)をもっていたはずです。

 

 

昨今は、伝統的な技術が形骸化し、様々な伝統的な技術が消滅しつつあります。

 

 

 

 

例えば、伝統的な空手にみられるような、直突きや前蹴りなどの伝統的な空手技が現在の極真空手にはあまりみられません。 

 

 

 

 

そのようになっていくのは、競技ルールを絶対とする偏った世界像(空手のイメージ)からくるものだと思います。

 

 

 

 

【新しい武道哲学】

 

 

極真空手が誕生し発展したことの本質は、新しい世界像を提示したということです。それが時代の心をとらえたのです。

しかしながら、私は極真空手の更なる発展と継承のために、自らの世界像を絶対とするのではなく、他者の世界像を包摂、融合していくような新しい武道哲学をもつ必要があると考えます。

 

 

私は、相手の戦闘力を奪う技術(武術)による、自己の喪失から自己を守る、そして相手の戦意を喪失させる道(自他の共存を図る道)が武道であると考えています。つまり武道を定義すれば、「武道とは武術による自他の共存を図る道」となります。

 

 

 

 

先述のように言葉で物事を定義、理解するところに空手のみならず諸処の対立問題の本質があるのかもしれませんが・・・。

 

 

話を戻せば、極真空手家達は、直接打撃制の採用により、「いかにして相手を倒すか」という理想を掲げ、それを考えるようになりました。それが、極真空手発展のキーだと思います。それがダイナミック空手という所以でしょう。

 

 

しかし、その理想は徐々に崩れていきます。それは、極真空手家達が「競技がすべて」「審判に旗を揚げてもらうにはどのように戦えば良いか」という考えに支配されるようになっていったからです。

 

 

 

 

勿論、競技がすべて悪い訳ではなく、また、そのような考えの人達ばかりではなかったかもしれません。

 

 

 

 

良くないのは、誰もそのような傾向を自覚又は考究しようとしなかったこと。そして、自覚したとしても異を唱えることができなかったということです。はっきりと言ってしまえば、自らの内側からの自覚を「秩序を守ることが良いこと」というような呪縛で、封印してしまったことです。

 

 

 

 

私は、極真空手が本来もっていた良点、すなわち、変化への対応を恐れない「勇気」そして、「他者を受け入れる大きな枠組み」を活かしたいと考えています。もし、極真空手がそれらを喪失していくのであれば、過去の成功とそれらの良点は、単なる時流に依るものと「蛮勇」と「粗雑」なだけだったと結論づけられるでしょう。

 

 

 

 

私は、理想を追求します。そして、極真空手の可能性を信じ続けます。

 

 

 

 

 【フリースタイル空手とは】

 

 

 

 

「フリースタイル空手」、すなわちIBMA-極真会館の空手道とは、「伝統技」「組手技」「競技」の3つを相互に作用させ、それを補完し合う空手道です。

 

 

 

 

つまり、伝統空手の技術を研究しつつ保存し、更に私が創設した組手技の技術に融合させていきます。また、新しい武道スポーツの創設(FKプロジェクト)を通じ、草創期の極真空手がそうであったように、あらゆる格闘技の技術を試し、新たな技術を創造していく実験の場を創設していきます。

 

 

 

 

最後になりますが、私は、空手やスポーツも芸術の一種だと考えています。また、芸術とは人間性の回復に必要なものだと考えています。

 

 

 

 

「フリースタイル空手」とは、修練や競技により、人間性の回復、そして創造性やダイナミズムを生み出すことを目指すものです。

 

 

 

 

先達は、沖縄発祥の武術を「空手」と名付けました。「空」とは、仏教の言葉に所以があります。そして、空手とは「empty hands」英訳されます。

 

 

 

 

私は、「空(くう)」の「手」とは、絶えず外部に開かれ、同時に内部を開拓するという、「open mind (オープンマインド)を意味すると私は考えます。

 

 

 

 

言い換えれば、絶えず他者を包摂、融合し、自己を変革、創造していく営みのことです。それは、絶えず新たな自他の関係を創造していく、「フリースタイル空手」の哲学そのものです。

 

 

 

 

是非、古くて新しい空手道であるIBMA- 極真会館の空手道を一緒に学んでいきましょう。

 

 

 


 

 

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