新たな武道スポーツをデザインする(新しい武道スポーツをデザインする〜NO,5) | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
【新たな武道(競技スポーツ)をデザインする】
先ず闘争(格闘技)としての本質を把持しながらスポーツ化を試みるのであれば、安全性の問題がでてくる。

その問題を考慮しながら技の限定を含む競技の制約(ルール)をどのようにするか、どのような状態を競技の終了と判断するかという点を核に競技化しなければならない。

また、それらの点を踏まえたと関係者が言っても、外部から見て普遍妥当性がなければ社会的にあまねく承認される競技スポーツとなることができないと思う。

以上の観点を踏まえ、TSルールには「クラシックスタイル」と「フリースタイル」の2種を設定する。


2種の方式を設定するのは、競技を行なう場合、多種多様な格闘技術の使用を「何でもあり」として行なえば、複雑になり過ぎ、多くの人が空手競技に集うことは出来ないと考えたからだ。

私が新しい格闘競技を考える目的は、「より多くの人が空手競技を通じ仲間になっていくこと」、そのような理想を実現するためで
ある。

ゆえに難し過ぎても良くないし、過激過ぎても良くないと考えた。そして、2種の競技には共通項があるので競技者は自由に競技間を往来できるようになっている。言い換えれば、両方の競技を行なうものも良し、片方の競技のみを行なうも良しというようになっている。

先述の2種の競技方式の共通項とは、一つは直接打撃方式であること。もう一つは「相手戦闘力の奪取」を数値化(ポイント化)し勝負判定の基準としていることである。

スポーツ競技には、する側のみならず見る側の理解が必要である。具体的には、勝負判定の明確性である。それに依拠し、スポーツ競技をより楽しむことが可能となる。

メジャー競技に必要なエンターテインメント性の充足には、する側、見る側がともに競技を楽しめることが重要だと私は考えている。言い換えれば、する側、見る側が共に競技を理解できるとうことと言っても良い。


但し、エンターテインメント性が、より多くの人の共感に必要な要素だとしても、後述する新しい空手の方向性から逸脱してしまうような過度のエンターテインメント性、すなわちスペクタクル性の重視は避けた。


私が考える過度のスペクタクル性とは、楽しむという行為を刺激のみに依存するということだ。

私はスポーツ本来の価値とは、する側が、感性のみならず、知性を通じて共感し合うということによって生まれると考えている。そこに見る側を加えることで、スポーツというものが、より社会的に有意義なものになっていくと考えている。


そのような観点から、TSルールは、老若男女が競技スポーツに取り組むことができるよう工夫した。

言い換えれば、生涯スポーツとしての可能性を有するような競技方式にした。


【クラシック・スタイル】
 
先ず、クラシック・スタイル方式についてだが、使用可能な技術は、伝統的フルコンタクトカラテ方式と同じと考えて構わない。

異なるのは、勝負判定法である。大まかに説明すれば、TSルールでは、1本を10点とし試合終了、技有りは5点とする。

つまり、技術の評価法(効果の判定)を伝統的な漢字のみならず、漢字を数字に変換して評価、宣告することとしたのである。

具体的には、主審の技判定と宣告は「一本」や「技有り」だが、試合場に於いては、スコアボードに数字よって、選手の獲得点数を告知する.そのことにより選手のみならず観客は、リアルタイムで競技の優劣を知るこ
とができこととなる。

ここで、ボールゲームのスコアボードをイメージして欲しい。
私は、カラテがボールゲームのように数字によって優劣が解れば、選手のみならず観客も競技と一体化していくと考えている。

また、一本、技有りの他に、場外に攻め出した場合に効果を与え、1点を獲得できるようにした。

さらに反則行為を規定し、それらの反則行為を於かした場合、程度によって「注意」「警告」「失格」とし、それぞれ1点、3点.10点を相手に与えるというルールにした。

そうすることで、繰り返しになるが、リアルタイムで試合の優劣が選手のみならず観客に理解できるようになるのだ。

それらの方式は、ピンチとチャンスがあざなえる縄のごとく到来する勝負の世界を、選手自らの判断で乗り切る訓練になり、スポーツ競技に人間教育的価値を醸成、付加するようになるだろう。

また、観客においては、そのような状況を乗り切る精神力、技術、知性等を楽しめるようになり、選手同様、競技による人間教育的価値を享受できるようになると考える。

【フリースタイル】
フリースタイルは、クラシック・スタイルを基盤にして、相手のバランスを奪い、転倒させる(倒す)技の使用を許可した。また、相手の背後位置(バックポジション)をとることに価値を与えた。

そのような、技の使用を許可したのは、従来のフルコンタクトスタイル方式の問題点を解消するためである。

従来のフルコンタクト方式(ルール)は、頭部の打撃技を蹴り技のみに限定することにより、接近戦での突きの応酬に傾いた。そのことは、これまでのフルコンタクトカラテ競技の歴史が証明している。

つまり、そのような問題点を解消するために、相手のバランスを奪い、転倒させる(倒す)技の使用を許可したのだ。また、相手の背後位置(バックポジション)をとることに価値を与えたのである。

そのことによる良点は、打撃技によるノックアウトが困難な場合でも、「どちらが戦い(試合)を支配しているかを判定するための材料を与える」ということこと。「戦い(試合)のアプローチの幅を拡げ、戦術の多様性が生まれること」などである。

端的にいえば、格闘技術の差をより解り易くし、勝負判定がし易くなるということである。

補足を加えれば、接近戦での組技の使用を許可することが、接近戦の多用を避け、かつ頭部打撃への適応力を強化する狙いがある。(頭部打撃への適応については別の機会に説明する)

また、組技の使用を認めることで、組技の多用が懸念される向きには、組み合った状態での攻防に時間制限を加えたり、掴みを制限したりして、工夫を凝らしている。

そして、選手が組技に精通してくれば、相手が組みにくるところを打撃技で攻撃することも可能になるはずだ。


私が考える競技スポーツの良点は、反復練習を可能とし、技術を創造する楽しさを育むことである。そのような要素は、必ず優れた技術を生み出すと確信している。

さらに、上段でノックアウト(一本)を取る技術の停滞や、勝利を確実に得たいがゆえに確実な戦法を優先するような傾向のある現在のフルコンタクト方式の空手競技に新風を巻き起こすと考えている。

先述のノックアウトを取る技術の停滞の原因は、競技者の努力不足というより、格闘技術の過剰な制約による競技者の創造力の低下が招いたものであると思う。つまり、技術の創造力の低下が戦い方を単調とし、同時に勝負判定を困難にしている。
 
その問題点を解決するために考え出したのが、打撃技以外の攻撃技術の導入なのだ。

それらの攻撃技術とは、相手を倒す技術と相手の背後に着く技術である。それらの技術の導入は、これまで打撃技のみが空手の技術と思い込んできた人達、また「見事な打撃技」を最高の価値とする人達に違和感を与えるであろう。

しかし、新しい空手競技においては「相手戦闘力を奪う」という価値にそれらの技術の価値は包括される。

繰り返しになるが、新しい武道スポーツの判定基準の核となる価値は、「相手戦闘力を奪う」ということである。

つまり、TSルールで取り入れた、「背後取り」という新しい技術の導入も、レスリング競技同様、相手の背後を取ることを、相手の動き・身体を支配し、その戦闘力を奪うと判断するという考え方に依拠している。

同様に「入り身落とし」と我々が呼ぶ、相手のバランスを一瞬にして崩し倒す技術の導入も、相手を倒す技が相手の戦闘力を奪う技術と考える。

もし、そのような戦闘技術を加えることで、打撃技の発展を妨げると考える向きには、こう言いたい。

むしろ、それらの技術が触媒のような役割を果し、既存の打撃技がより高次化されるという効果を想像して欲しい。

また、客観妥当性を追求する新たな枠組みで競技を行うことにより、他のスポーツ競技のみならずあらゆる闘争に共通する普遍的な理論が創出されるという面を想像して欲しい。

TSルールでは、相手の一瞬の隙を突く「瞬撃」、相手の攻撃を弱体化する「転じ」、それを可能とする「間合いの調節」「体捌き」、攻撃技を連係し相手を攻略する「連絡技」などが着目されるであろう。