総合格闘技を観て想う〜その3 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
~総合格闘技を観て想う~その3

空手を知っている人で、カラテの技が打撃技だけだという人はおそらくいないであろう。であるならば、戦闘力を奪う能力、技術の一つがカラテであり、その競技に寝技まで入れるかどうかは別として、倒し技は入れてもおかしくはあるまい。補足すれば、昔は、剣道やカラテにも倒し技が使われていた。

それがなぜ消滅したか?もし、試合の仕方が汚くなるとか見栄えが良くなるからだと思われるとしたら、それとは少し異なる意見を私は持っている。

一言で云うと、試合が面白くなくなるからだと私は考えている。「えっ、面白くなくなるからというのが原因なら、それは正解ではないのか」と皆さんは思われるだろう。そう、ある意味正解である。

しかし、もっと本質的な事に、より善い勝ち方というような、美学を基盤とした、ストーリー性の重視の価値観があると考える。

私は、そのような美学・価値観よりも重要なものがあると考えている。

特にルール設定には、美学よりも普遍性が重要だと考えている。なぜなら、美学は一人ひとりが持てば良いものだと考えているからだ。美学は、上から強制されたり、刷り込まれたりするものであってはならない。

私は普遍性を基盤とするルールを創出する事で、多様な価値観や時代の変遷による価値観の変化に対応できるようになると考えている。また、斯界を永続的に発展させる事になるとも思っている。

フリースタイルカラテ競技は、試合で認められる攻撃技に明確な基準、ここで言う基準は技ありが5点。有効が3点というような数字による評価(数値化)とその数値に関する定義を明確にしている。

それらの点数は、一本(戦闘力を喪失した)という状態を10点として設定する事により設定されている。

そのような攻撃の効果の数値化は、選手のみならず観客に対し、その局面が挽回できるという期待を喚起させる効果を生んでいくはずだ。

つまり、これまでのフルコンタクト空手競技は、最後の最後まで観客の理解を等閑にしていたのだ。おそらく、一気に時代の寵児となったフルコンタクト空手にはある種の奢りがあるとしか思えない。また、「フルコンタクト空手だから見れば解るだろう」という解釈があるのかもしれない。

私は、フリースタイルカラテ競技のルール(システム)が空手愛好者に受け入れられ、発展していけば、先に述べた総合格闘技のようなハラハラ感を創出する事になると考えている。試合のゴールが観客に明確になるからだ。

そして、人の評価(旗判定)は不確実で当てにはならない。ゆえに観客が理解できるほど明確な定義を基に攻撃を数値で判定評価するという事が可能ならば、これまで数多あった納得できない試合判定の起きる可能性が少なくなる。(残念ながら絶対になくなるとは言えない)

そうなれば、流派や団体なんて関係ない。そのルールを了解した者同士、正々堂々と戦えば良いだけだ。

また、そのようなルールを了解するという事自体がすでに仲間だという証拠である。
フリースタイルカラテ競技は多様な流派と流派を繋げ、交流させるためにある。そう思って欲しい。


もちろん、「点数で評価なんて、ばかばかしい」「カラテは一撃必殺だ」と言われる方もいるだろう。しかし、そのような方は、外から見れば噴飯ものだという事がなぜ解らないのだろうか。

私は、桜庭選手のようにインサイドワークを重要にして、高度な技術を見せる選手を育成していく事の方が、斯界の発展に重要だと思う。
(~総合格闘技を観て想う~おわり)

私は格闘技の試合は見ないようにしています。なぜなら、観ると興奮して大変だからです。
今回も桜庭選手の戦いが素敵だったので、興奮してしまいました。「いかん、いかん」・・・。