~総合格闘技を観て想う~その2
振り返って、カラテの試合はどうだろう。そのような期待があるだろうか。フルコンタクトカラテ競技には多少はあるが、それでも、多くの試合が旗判定で決まる。
少々乱暴に言えば、フルコンタクト空手競技は、点がいつまでも入らないボールゲームのようなものだ。
もちろん、選手双方に見るものを圧倒する攻撃技術と同時に防御技術があるのならな仕方がない部分がある。
しかし、どうひいき目に見ても、選手に点を入れるという目標意識が低く、旗判定で勝てば良いというように見える。(何を隠そう、私もそのように考えてしまった事がある)
また、それがフルコンタクト空手競技なのだと選手も観客も安易に納得しているふしがある。
それでは、試合が面白くなる訳がないではないか。しかし、選手としてはルールを破るわけにはいかない。また、何が何でも負けたくない。勝ちたいと思うのが自然であろう。
ゆえに選手を責める訳にはいかない。そのような考え方、戦い方になる原因は、競技ルールにあるのだから。
現在私は、フリースタイルカラテ競技という「新しい空手競技」を提唱しているが、本質は極真空手ルールの改善提案である。
そのルールは、身体を賭して仕事をするプロの総合格闘技の試合と同じルールと同じとはいかない。なぜなら、私は老若男女が参加し楽しめる競技ルールを考えているので、安全性の面の考慮が不可欠だからだ。
ここで、そのルールの概要を大まかに書いてみたい。
先ず、既存の空手競技と新しい競技ルールの一番の相違点の第1番目は、技の効果を細かく点数化し、少しでも試合の優劣を解り易くした点だ。第2番目は、攻撃技の制約を可能な限りなくした事。第3番目は、追加した新たな攻撃技の評価法を設定した事である。
第2番目と第3番目のルールを考える際、私が行なった事がある。それは競技ルールの理論的基盤の見直しである。
言い換えれば、新しい競技ルールを考えにあたり、総合格闘技に見られる様な、ノックアウト、ギブアップという事が何を意味するかを考えると言う事である。
要するにフリースタイル空手競技の考案は、ノックアウトとギブアップの本質を考え、それを再構築する事から始まったのだ。
その結果、私はノックアウトとギブアップを、戦闘力の喪失(戦意の喪失を含む)だと言う意味、概念に翻訳した。
つまり、頭部打撃によるノックアウトや投げ技によるノックアウト(私は可能だと思っている)、そして関節技や絞め技などによるギブアップは、すべて戦闘力を喪失した状態だと考えたのである。
しかし、相手選手に対し、上述の様な状態にする事やそのため技を駆使することは、少年や一般人が趣味で行なうにはで困難であろう。ゆえに、攻撃による相手戦闘力の奪取(逆から言えば、戦闘力の喪失のこと)を分解、細分化しする事が格闘技を競技化するポイントだと私は考える。
言い換えれば、危険なゴールを排除すると同時に、それによってゴールが決まりにくくなった分、ゴールの細分化(小さなゴールを設定する事)で試合の優性劣性を観客に解り易くするという事だ。(ゴールという表現では解りにくいかもしれない。今回はこれで通す事とする)
細分化という考え疑問を感じる人に言いたい。確かに細分化という言い方のは問題があるかもしれないが、本当の戦い(命懸けの戦いに)に技ありはあるだろうか。
「ない」というのが私の考え方だ。我々は、既に上述のような相手戦闘力を奪う技の分解、細分化を認めているである。例えば、「一本」に対する「技あり」は私の言うところの細分化の例である。
そして、それを認めているのは、空手競技がスポーツと同様の要素がある証拠なのだ。(この辺はいずれ書きたいが、今回は書かない)
更に私は考えた。フルコンタクト空手競技における「技あり」の意味は「相手の戦闘力を完全にではないが、かなり奪った打撃技と評価できる技」と明文化できると思う。
もし、そのような意味、概念が成立するのであれば、相手戦闘力を奪ったと判断される他の状態を根拠に他の評価法と技の設定も可能ではないだろうか。
試合とは、戦う時間と技を制約し行われる。その枠内で優劣を競う。
そして、その優劣を決める判断基準は戦いの能力(戦闘力)に置くのが妥当であろう。
しかし、日本の空手競技はどうもそれとは異なる判断基準を持っているようだ。ではその判断基準は何かと言われれば、私の日本武道論の主題であるが、ここでは書かない。
あえて一言で言わせて頂くと「美学」だと言っておこう。
私は、そのような美学的(美学というと良い意味でとらえられると思うが、そうではない)判断基準ではなく、世界標準となるような普遍的な判断基準(古今東西の誰が考えても妥当だという)を考えた。
それが、「相手戦闘力を奪う能力」である。
そして、そのような判断基準を基に、「倒し技」「背後取り」等の技を加えた。
「倒し技」は、相手のバランスを奪い、相手戦闘力を弱体化すると考えられる。また、「背後取り」は、自己に有利、相手に不利な位置を奪う事であり、これも相手戦闘力を弱体化する技として考える。
打撃技に加え、上述のような技の使用を認める事により、間合いの調節能力を含む「体さばき」の能力や、短時間ではあるが組技も認める事により選手の身体能力が向上するはずだ。
繰り返しになるかもしれないが、フリースタイル空手競技の核心は、戦いは「相手戦闘力を奪う」と同時に「自己の戦闘力を奪われない」ための技術と心身を競うものでなければならないという信念である。
そこを核心にすれば、すべての競技にその考え方は転用可能なのだ。そして、そこには妥当で公正なジャーナリズムも生まれる。ジャーナリズムとは、そのジャンルが進化、発展するために必要な外部からの眼のことである。
奇しくも、伝統派の空手競技も倒し技を判定材料に取り入れている。おそらく、大体は私の考えと同じだろうが、核心の部分では異なる気がする。(その辺については今回は書かない)
(続く)