【もし喧嘩になったら】
先日、中国古典の研究家で著述家の守屋淳さんと守屋さんの友人とお会いした時のことである。
守屋さんが、「増田さんは、喧嘩になったら、土下座してでも誤り、喧嘩をしない」、「本当に強い人だと」言ってくれる。
私は、ちょっと待て、この話は正確ではない。訂正しなければと判断した.しかし、時間もないので、その場では話を流した。守屋さんは、友人に対し、私を持ち上げ、アピールしてくれたのだと思う。
守屋さんは著名な中国古典の研究家で著述家の守屋洋先生のご子息である。
本人は、早稲田大学を卒業後、会社勤めをしながら、自分の研究とお父様の仕事の手伝いをなさっていたそうだ。
現在は、著述家として独立、精力的に論語を初めとする中国古典、孫子やクラウゼビッツ等の古今東西の戦略論に関する講演会や執筆に勤しんでいる。
私達は、月に1回、中国古典や兵法の勉強をしている仲間だが、守屋さんはその会のリーダーであり、私の中国古典の先生と言っても良い。
皆さんは「増田がそんなに人間が出来ているわけがないじゃないか」と思われていると思う。
「その通り」。私はそんなに人間ができていない。このままでは、私は嘘つきになってしまう・・・。そこで、喧嘩になったら?という問いに対し整理して考えてみる。
先ず、喧嘩になったらといっても、①「訳の分からない奴から喧嘩を売られる」②「ある程度分けの分かっている奴から喧嘩を売られる」のとでは話が異なる。
①は、増田が空手をやっているとか、強そうだとか、そんなことも想像しない、本当に分けの解らないやつだ。そのようなやつは厄介だ。ゆえにそのようなやつがいそうな場所には近づかないというのが私の長年の考えだ。
そのような場所に行かなければならないときは、人通りの少ないところを避けたり、なるべく用心していく。
そして、そのような奴に喧嘩を売られたらどうするか、こっちはもっと訳の解らないふりをしてやりすごす?否、人や警察がいるところまで逃げていき、調整役の現れを待つというのが私の戦法だ。
もし、その対応法も不可能だと判断したら、なるべく速やかに相手を戦闘不能にしなければならない。しかし、場合によっては殺傷することもあるから、その際の言い訳も考えておかなければならない。これは、想像するに本当に厄介なことだ。ゆえに私は人との接触をなるべく避けている。最近は、至る所で訳の解らない奴がいるからきをつけなければならない。
②のある程度、訳の解る奴とのけんかというのは、基本的に相手の立場を考え、それを認めることで、かなり状況が良くなる。その上で私は、むやみやたらな争いは時間とエネルギーの無駄だと思うから、先ず私が折れる。(謝る)とは言うものの、私の知人同士の間では、私を怒らせたら怖いという意識があって、現実は相手の方が折れてくれているのではないかと考えている。抑止力みたいなものだ。
そのような事が考えられるから、喧嘩になりそうになったり、もし喧嘩になったら、なるべく自分が折れるようにしなければと考えていると言った方が正確かもしれない。
もちろん、相手に明らかに否がある場合は難しい。しかし、あくまで相手の立場を承認し、私にも立場はあるけど、あなたの考えは解るということを伝えた上で、妥協も必要かもしれない。つまり、自分に否はないと思っていても、あえて相手の立場を立てて謝るという事だ。これは非常に難しいと思う。(特に僕は)
また、喧嘩というのは、どちらか一方、あるいは双方、訳が解らなくなっているから起るのではないだろうか。ゆえに現実は難しい。しかし、相手ととことんやり合ってしまったら、遺恨を残すか。本当に訳が解らなくなる可能性がある。できれば、そうなる前に、間合いを外せるものなら外したい。
そのためには、相手を理解できる能力を鍛える事である。理解できれば、相手の立場も立てられるし間合いも外す事ができる可能性がでてくる。
つまり、喧嘩とは訳が解らなくなった状態に陥った時に生じると言って良いかもしれない。あるいは、訳が解りたくないと暴力衝動が起きたときであるのではないか。
そうなると、人間に対する理解力、共感力等が喧嘩の回避には必要だという事が見えてくる。
ゆえに、日頃から、人間に対する洞察を怠ってはならない。また、様々な人間が存在する事を知る事だ。これが一番重要である。しかし、多様な人間すべてを知る事は不可能であろう。なぜなら、いろんな人と付き合うだけの時間を我々には与えられていない。ゆえに、気の合わない人とは付き合わない。これは当然の事だと思う。なぜなら、気の合わない人と付き合えば喧嘩になる可能性が高くなるからだ。(そのような行動傾向は、人類のDNAとか言う難しいものの中に組み込まれているかもしれない。自己保存の欲求とかなんとか、あるでしょ?冗談です。難しい話はやめましょう・・・。興味ある人は教えてください)しかし、「訳の解らない奴に出会ってしまったら、また、相手が訳が解らない奴になってしまったら、どうするか」が、ここでの問いの本質だったと思う。
私は喧嘩を避けるには、気の合わない人や訳の解らない人とは付き合わないという考えにも一理あるように思う。
少なくとも、話が合いそうにない奴、訳の解らない奴とは付き合いたくないと誰もが思っているに違いない。しかし、生きていく上ではそのようにできない事もある。
以上を踏まえた上で、もし訳の解らない奴に出会ったり、相手が訳が解らなくなったらどうするか?
私が原則としているのは、最初から訳の解らない行動や態度をする奴には、徹底的に交戦するか無視。そして、最初、友好的にくる奴には友好的にというものだ。ここで言う友好的にというのは、相手の立場の尊重や理解しようとしている態度や行動が見られる状況の事と言っても良い。
しかし、その友好的な奴が、もし訳の解らない態度や行動を見せるようになったら、どうするか。先ず一度は理解しようと努力することだ。そして、態度や行動が改善されれば、そのまま友好的に付き合う。しかし、もし態度や行動が改善されなければ交戦、あるいは相手にしないというのは、どうだろうかと考えている。
これは、ゲーム理論に於ける、しっぺ返し戦略というものだ。私は無意識のうちにそれを行っていた。
もちろん、何度喧嘩になっても、「腐れ縁」で付き合い続けるという考え方に情緒的な共感を覚える人は多いであろう。ゆえに、先ほど述べた、私の考えは反感を買う可能性が高い。しかし、これ以上は書かないが、考えて欲しい。「皆さん、訳の解らない態度や行動をとる奴と付き合えますか」?
以上、今回は守屋さんに対する謝罪と修正のためのブログです。長くなってすみません。私は嘘つきでした。今度言い訳させてください。ただ、私は一度、人の喧嘩の仲裁で「土下座」をしました。それは、私の好きな人が町中で喧嘩をしそうになってところに遭遇した時の事です。その時私は、その人に問題が起るのを避けるため、相手に土下座をして謝ったのです。おそらく喧嘩をしたら、私の知人が相手をぶちのめしたでしょう。おそらく、土下座をして喧嘩を止めようとする私を見て、抜いた刀を鞘に納めてくれたのでしょう。その時の話と混同してしまいました。すみません。人のためには人間は大胆になれるものです。しかし、本当の私は、できた人間ではありません。いつも、私を持ち上げてくださって有り難うございます。これから、もし私が、訳の解らない態度や行動をとったら、その時は遠慮なく忠告してくださいね。私のような空手馬鹿と仲良くお付き合い頂き、本当に感謝しています。