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masterik - 新しい朝が来た!(仮)

ブログの再会。

と、いうか再出発。

タイトルはまだ考えついてないから、思いつき?!

今、頭の中をアップデート中。

普段使わない筋肉を動かそうとするとどうやっていいかわからない。
この前の秋の運動会に出たときに、ムカデ競争やったんだけど難しかった。前の人と同じように進もうとするんだけど、後ろの人とずれると自分がどうしていいかわからない。どちらに合わせたらいいのかちんぷんかんぷん。
で、体を動かそうとするの自分なんだけど、タイミングは他人なんでなんだか一度こんがらかるとまるでわからない。
ただただ、周りの流れのまま、従うだけ。

それが頭の中にも言える。
今まで使わなかった頭を使うことになったので、少々戸惑い気味。
一応、流れみたいなものはわかるのだけど、実際がどうなのかわからないのでまるで違う感覚に陥っている。
とくに思うのが、ロジックの流れが違うので脳みそが筋肉痛を起こしそうなのが今の状態。

ロジックを追う場面は、とにかくなるべく理想の状態を目指すとき。

で、理想は大きく分けて2つのパターンがある。

・一つはアイディアを膨らませるとき。
創造性っていろんな場面で必要とされるが、芸術における報酬を伴わない自分の根源的な欲求からの表現は別として、ビジネスのように対価によって自分が評価されるのであれば、誰かとのコミュニケーションがビジネスの内容を決める。
誰に対してなのか、何に対してなのか、どのようになのかと、どれほどなのかということをつきつめていき、それを整理することは間違いなくロジックの問題になる。
ただ、ビジネスに創造性の源泉はアイディアの創出なので考えをはじめは単純にわかっていることから段々に広げていくことで、アイディアの数が増える。そのうちの実現可能なものについてはさらにどんどん、深く掘り下げ、長く伸ばしたりすることが大切になる。

・もう一つは間違いなくものごとを運ぶとき。
何かをするにつけ無駄なことをしてもしょうがないので、とにかく無駄なく無理なく漏れがなくといった考え方がでてくる。それは規模が大きくなりいろんな人が関わるようになってくるときは特にそう。説明ってのがついてまわるから、それに対抗して説得が必要になるので、粗つぶしをするわけだ。この部分はこういっている人がいるとか、これはこう失敗するとかの類だ。

この二つは厳密にわけることは難しいのだけど、やっぱり脳みその使っている部分が違う。肉体的にそう感じる。
でも、両方ともいったりきたりすることで、全体が見えてくるというのがあるので、どちらかに偏っていることもできない。

マイペースに自分に埋没していても、相手の顔色ばかり伺っていてもしょうがないのと一緒。
両方がうまく繋がったときにやっといろいろが見えてくる。

でも、困ったことに同時にやるのが難しいときがある。
自分の置かれている立場であるとか、自分がやることの種類とかで、どちらかに偏ってしまう。

よく、自分にしかできないことを表現しろなんてことがいわれたりする。
すると、それを表現しやすいことをする立場、会社でいえば企画だとかデザインとか、そういったところにいる人はそれで評価してもらえる。
そして、それが尊いものだと思われていれば、創造性とは離れて、そのポジションにいればそういうものだと評価されるし、その人自身が創造性があると思われる。
と、同時に創造性がないと思われるポジションもあり、そう思われるポジションについた場合、創造性がない仕事で創造性が豊かでない人と思われたりもする。

でも、よくよく考えてみれば創造性なんてのは立場や場面によって求められるものが違うだけで、創造性自体はあると思う。
取引が生じれば、それは新しい事実が増えたということなので、何も生まれていないわけでない。棚の整理にしたって、並べる順番を変えるだけで別の文脈が生まれるので、それは何かを創造したといってもいい。
だから、創造性っていうのは何に対しても必要だ。

で、その2つが今頭の中で陣取り合戦をしながら、それぞれが自分の居心地のいい場所を詮索している状態。
もともとは決まりよくルールをフォローするタイプなので、何かこれが新しいことだ、すげーだろみたいに目立つような新規性というのは突発的な感じがして苦手だ。参加する雰囲気に合わせようとしますけど、実際はいつも違和感がある。どっちかっていうと細かく条件を数えだしてフォローしていくほうが得意なので、頭でっかちなんだよな。

とはいえ、まだ、はじめの一歩な感じなので、いろいろなトライ&エラーが続くのだろうなということかな。

なんせ、わからないことだらけので。。。
手順さえ従えば簡単なはずなのに、途中を適当にやるからわからなくなるんだよ。

ひっかかりを見つける

自分が普段見ているものをあらためて意識してみる。
朝を目を開けて最初に飛び込んでくるのは、太陽の光が手を伸ばした真っ直ぐ前に広がる白い天井の文様に照り返された光。その光はスポットライトに閉じていた瞼がびっくりして起きるのと異なり、やさしく起こしてくれる。そして、布団から出たことを思い出して着替えた後に、外の空気を吸いに踵が踏まれた靴がある玄関まで進む。
玄関を開けると透けた光があらゆるものに出会い、ここで寝室のカーテンを開け忘れたことに気づいて、まぁいいかっと自分を納得させた。横をちらりと見ると、家の角より目を輝かせて散歩に連れて行けと犬がじっとこちらを見ているので、わかったよと返事をしていつもの朝が始まる。

言葉にするまでもないいつもの行動ではあるけれど、こうして言葉にすることで自分がどんなものかを新たに発見する。そして、次の日も同じことをすると、昨日と違う自分に気づくことになる。すると、おもしろいことにいつもと同じだと思っていたことと違うことがでてくる。靴を履く順番であったり、最初に着替えた服であったり、まあ、いろいろだ。それを毎日毎日繰り返す。すると、何か見つけることがあるのかもしれない。

この作業は意識的にしろ無意識的にしろ自分自身だけが頼りになる。自分が基準になるからだ。自分の中にあるものをみつけること、自分の中にないものを見つけること、どちらも自分にしかわからないことだからだ。
前にあったのだけれど自分が気づけなかっただけとか、前から存在は知っていたのだけど印象が変わっているとか、同じように隣に置かれているものが今はないとか、色あせたとか、いろいろと気づく。

順番を決める

その後は物事を整理する。ここまではたくさん気付きが並べられている。でも、たくさんの気付きがありすぎて、頭がいっぱいになってしまう。で、交通整理をすることにする。これがけっこう大変。文章を書くのもそうなんだけど、実際に文章を書く時間よりも何を書こうかと迷っている時間のほうがずっと長い。同じようにどれから片付けるかを決めることはとても大変。ここが分かれ道になる。きちんとまとまりをつくるため目安をつくるには順序だてて考える必要がある。種類ごとに分類して、その後にまとめる順番を決め、まとめたらどこにするかの場所を決めるという作業が残ってくる。そして、ものをおくにはそれなりの理由をつけてあとで見てもわかるようにしなければいけない。

でも、掃除をするとわかるけど、このうまく順番をつけるというのがとても大変。横によけるだけなら片付けたとは言えないし、捨てることも勇気がいる。たいていはいらないものなんだけどね。

コツは何でもいいから基準になるものを決めること。それとほかを決める。すると基準をもとに複数のまとまりが生まれる。そのまとまりの位置づけがそれぞれ決まってくる。そんなふうにしていろいろを決める。まとまることで意味が浮かび上がってくる。それが何であるのかをあらためて知ることが、また別の気付きにつながってくる。

そのうち、まとまりが自分が把握できるくらいに少なくなってやっと全体像がわかってくる。ただ、このまとまりも大きすぎると何をまとめたかわからないし、小さすぎると何でまとめたのかわからなくなる。これが第二ポイントになるのかな。この作業次第でわかりやすいかわかりにくいかが見えてくる。

まとめ作業をする

最後にいくつかのまとまりを文章にする。ロジックなり物語をつくることでやっと自分の中でわかった状態がやってくる。前段階のまとまりをつくる作業をしっかりやっていれば、きちんとできる作業かな。ポイントがどこかってところを把握して、そのポイントを説明するためにどのようにつなげることができるかを試してみて、もっとも正確に表現できる形を探すことで作業は終了。

人に説明するときの、掴みと落ちを考えて、はい、終わりです。
見ても見えず。

見ようとしても見ることができず。

おかしいのは私?それとも・・・

何でも知っていることは何でもないということなのだ。

だが、しかし知らないこと以外は知っているということも、知らないということ。

でも明らかに故意に見落とすこともどうかと思う。

自分の正当性ってのは自分が生きる理由ではあるけれど、みんなが生きるのには邪魔になったりもする。

わかってないのはあなた?それとも・・・

本当は全部、本当。

彼がうそを言ったからって、彼は別の本当を探しているわけで、そのうそが自分の本当を穢すとは限らない。

自分がうそを言ったからって、彼に本当をあげるのは、ぼくにうそをついていることになることもある。

本当のことなんて、自分が思ったこと分だけしか存在しない。

誰かが言ってた。

宗教と科学はいっしょだって。

どっちも思いこみなのかもしれない。

全部みることは無駄なことなのかもしれない。

全部見ようとして何も見てないこともある。

全部見ようとして見ることを忘れているかもしれない。

だれかが声高に叫んだところで本当の形は違うのかもしれない。

それでも、無駄とわかっていても、本当が何かってのを探すのは大切だとは思う。



経済を学ぶと最初に出てくるのが需要と供給の考え方。
需要は右下がり、供給は右上がりの直線を描いたバッテンをめぐっていろいろと考察が繰り返される。

バッテンがうまく働くところはそのままにして、そうでないところは強制的に補正を行い、社会がうまく回っていくように制度をつくる。
と、ここまでが基本パターンになるのだが、そのあとの議論の発展の方向が一応は教科書的な見方があるけれど、現実を見たとき、話してによって見方がわかれることがよくある。

でも、自然科学だとその多くが証明されてしまえば議論の余地がないことが積み上げられていく。
たとえば、物質の構造を考えてみる。役者は電子と陽子と中性子で主役は電子。
例外みたいなものはどこにも存在しているが基本、電子の受け渡しで決まる。
Aさんは5個欲しいときにBさんは5個あまっているときにお互いは出会って5個の過不足を整えればいい。
で、AさんとBさんは元の形に戻る。そして、AさんとBさんはお互いずっとそれ自身でいられる。
また、受け渡しの個数は
くせや性格なんてのはこの世がつくられてから、ほとんど変化することもないので、ルールを知っていさえすれば、次も同じことができる。
それが科学の土台を提供してくれる。

たとえば、体を動く時は必ず活躍するナトリウム。人間の口に入るときはその多くが塩という形で摂取される。
塩は化学の言葉で、塩化ナトリウムであるが、塩素とナトリウムが一緒になってできたものだ。
で、この2つができあがるのはナトリウムは普段よりも電子が一つ足りずにいて、逆に塩素は電子が一つ余分にあるので、両者が近づいたときに手持ち無沙汰の電子が落ち着くことができる。
また、それぞれの構造としてはナトリウムは11番目、塩素は17番目で番号がふられている。
そして、これは誰が見ても必ずそうだってことがわかる。

ところが社会科学はあの人がこういうことを言っているが、この人はこういって、でも、自分は考えるがあなたはどう思うかって、ところで議論に参加する人間の数だけ見方がわかれる。そして、その多くはこっちのほうがまだマシでしょみたいな感じで判断される。


清算主義、リフレ、リバリタリアンなど、経済の建て直しがいろいろと喧々諤々とされているわけであるが、ほかの人間より詳しい人たちが自分はこっちの考えを支持するのでどうにか自分の見方を採用してくれれば世の中が明るくなるよっていう、それでいいのかいみたいなことを疑問に思っていたのがそもそもの始まり。

ぼくなりの見方では社会科学と自然科学の溝が深いというのがある。
社会科学は人間のする行動に焦点をあてている。

人間は生物である。そして、生物は物質の集まりであり、化学反応のプロセスであり結果である。
そして化学は電子を基本単位として考え、そのメカニズムは物理学から導かれる。
自然科学はこうやって連携して考えることができる。

同じように自然科学と社会科学がつながっているかというと微妙だ。

それを強く思うのがノーベル賞をめぐっての動きである。
今年の受賞でも医学生理学賞と化学賞が生物を対象としているように学問体系が重なっていることは過去に何度もあった。
ただ、自然科学の分野においては、生物と化学、化学と物理の場合、知識体系がつながっていることがわかる。

経済学賞と平和賞というのはその時々の好みに左右されることが多い。
こんなことを考えながら、社会科学は標準的な方法論を身につければ、おおよそのことは理解できて、同じ意見を共有できる方法がないものかと思う。

最初に戻るが、経済学における需要と供給は、化学でいうところの電子の受け渡しの説明で終わってしまっているのかなと感じる。
化学の場合、それぞれの原子のパターンが固定されていて、具体的に考えることができる。
経済学の場合は、そこまで体系的に言っているとは思えない。

たとえば、性格というのは遺伝子によるところが大きいというのがわかっているので、そこから交雑のパターンで地理的分布を解析して、その結果、社会的な構造や意思決定パターンはどういったものが導き出されるのかってことができるのでないと素人のぼくは思ってしまうのです。
あと、人間の想像から経験的に語り継がれていることをもう少し掘り下げて、生態学でいう希少性に経済学でいう希少性を調整しなければいけない。
だって、不思議でしょ、需要と供給に任せればうまくいくと考えたがるのは不自然だし、それに任せるということはいいことでも悪いでもないのに、そこに価値観を持ち込むのは。たぶんね、希少性はメタファとして捉えられていて、希少性が生態学上の希少性と連動していないことがあるうんだろうね。希少性は人の心次第で無尽に生み出されるって思いこんでしまうんだろうな。

そういえば、イグノーベルの経済学がジンバブエのゴノ総裁に授与された。
壮大な実証研究だったわけだが、そろそろ人智に頼ることを止めて、ぼくたちが自然と呼ぶものに従ったらどうだろうか。