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masterik - 新しい朝が来た!(仮)

ブログの再会。

と、いうか再出発。

タイトルはまだ考えついてないから、思いつき?!

今、猛烈に暗記を行っている。


小学校4年生のときにアマチュア技師の資格をとった。
別にアマチュア無線が好きだったわけでもないが、とにかく新しいことを身につけるのが好きで好奇心で取得したものだ。

一応、法規と技術の講習会があって、それぞれ10回ほどの講義だった。
その後、テストを受けるわけだが、そのテストは100点の自信があった。

だって、全部答えがわかってしまったから。

そのときの暗記方法は丸ごと覚えるというものであった。

どうして覚えることができたのかは定かではない。
とにかく一度聞いて、見てしまうと忘れられない感覚だった。

でも、今の暗記をする場合は、少々工夫がいる。
暗記の量が無線のときとは桁違いに多いのもあるが、まるごと暗記というのが今の年齢だと不可能に近いからだ。


そこで、考えたのはポストイットをべたべたと参考書に貼ることにした。
まずは、一通りページをめくり、どこか理解が浅くてひっかかりのあるページの端にポストイットを貼る。
次にポストイットを貼ってあるページを再びめくり、自分が理解できないことをペンを使って体で理解する。
次にそれでも忘れそうなところ、覚えていなければいけない箇所を赤線のマークする。

そして、最後に問題をやって、間違ったところを、参考書でやったのと同じ方法で覚える。

最後にポストイットが貼ってあるところを確認して、覚えているのであればはがしていく。


そんな感じで大量のインプットを行う。

この方法の鍵はポストイットを貼る事にあるのだ。


概念的な理解では、ラベルを貼る行為により、物事を分類し、自分の理解を促す箇所を強調して覚えていくことで、状況もろともテキストの内容が記憶できるのだと思う。


でも、今度の試験はただインプットするだけではダメで、論理を追わないと決して解けないような問題もちらほらとあるので、結局は単発で覚えてもダメである。


ようするに普段から論理的に整理して覚えなければいけないのだ。


あーっ、そろそろ限界ですぜい。


でも、がんばろっと。

義務的になんの変哲もないことを楽しく見せる方法を創造力という。

たとえば、食事をするときに箸をとる場面を思い浮かべる。

箸は単純に食べ物を口に運ぶときに使用する道具である。


でも、もう少し箸の動きを詳しくみてみると、以下のパターンが考えられる。

① 挟む
② 刺す
③ 押し割る
④ 着ける


箸を持つ手の動きをみると、以下のパターンが考えられる。

① 握る
② おろす
③ 挟む
④ 副える


そして、これらの行為をいろいろと組みあわせることで、食事のための食物の口への運搬ができるわけであるが、その行為をまた場面で区分すると、以下のパターンが考えられる。

① 味見をする
② 硬さをみる
③ 中身を調べる
④ 形を整える
⑤ 食べる


などなど、こんなところがおもしろいと感じる。


と、書き出してみるといろいろと詳しくわかってくる。

また、パターンの組み合わせを考えたとき、組み合わせが自分が意識しないだけでたくさんあることがわかる。

大事なことはひとつひとつのことは何でもないのであるが、パターン化して考えるとたくさんの意味が生まれ、それぞれが違う印象で受け止めることができ、自分の中でたくさんのことがあふれ帰るようになるのである。


何も考えないでいるのではなくて、何でもいいから日常の当たり前の生活の中から好奇心を拾ってくる作業をすることが人生を楽しくする方法なんだなと思う。

文章は書かなかった期間だけ下手になる。


脳みそに筋肉があるのかは知らないが、ペンと剣で別々の筋肉が使われるが、両方とも共通していることがある。
それはトレーニングである。
毎日、定期的に同じことを繰り返して、その行為がいつでもできるようにしておくことが大事である。

とくにペンは常時、手にしているイメージを持っていないとなかなかうまく書けないものである。

このことを強く意識したのは長文を書くときである。
自分の主張を裏付けるためにいくつかの具体例を用いて、文章を構造化するために論理を用いて、グルーピングした結果から導き出される要約を人が読んでもわかる表現に置き換える。

しばらく、書くことをサボるとこの感覚がわからないのである。
考えていることが曖昧で、強弱のない世界にいる感覚があり、どうしたらいいのか途方に暮れるときがある。わかりやすい典型が夏休みの日記帳である。普段から何も書かないでいるのは当然なんだけど、夏休みはそれに輪をかけて何も書けない状態になる。


あの状態は年を重なればもっと大変になる。
年を重ねてきた場合、それだけの経験があるとみなされ、年齢や立場に相応しい意見の表明をしなければという圧力を感じる。
プロなんだからとか、いい年なんだからとか、そういう類のものである。


使う言葉は、より抽象的に、より具体的に、より詳細に、より全体的にと、語彙だけだけでなく、表現形式においてもどんな人が聞いても納得できるだけの言葉の選択をしなければいけない。
そして、言葉を選択して発する行為は人格の一部とされる。
話している行為そのものがその人を表すこととなる。


それを最近また実感するようになったのがブログである。

一生懸命、ネタを探して、文章を練って書いているときには次々と連鎖反応して書く記事に困らないが、一度筆をおいてしまうと文章がなかなか前に進まなくなっている。

今がその状態。


だから、とりあえず無理やりにでも文章を書くことに決めたわけであるが、ここまで書いてまとめ方がわからなくなってしまった。

これも元来の怠惰のせいなんだよ。