現代の人は何か生きる指針を失っているということをよく聞く。
僕の世代の場合、社会にでるころはいろいろが崩壊しているときだったので、ああ、そうかなんて納得できるのである。
一般的な論理としては、戦後経済成長期における成功体験をひきずったまま90年代のバブル崩壊を機に、その古くからの価値観が喪失したために、人生をどう歩んだらいいかということをわからない。また、個人個人の価値観の変化とし
ては、サラリーマンの単一的な製造工程である画一的な教育システムの弊害として、時代の変化の速度が激しくなりすぎたためにそのシステムが適応しなくなってきたとも言われます。
でも、考えてみるとそれって本当なのでしょうか、という疑問が残ります。
『民草は知らしめずして、拠らしむべし』とあります。
それと同じようにメディアの画一したイメージ戦略にまんまとのせられて洗脳されているのではないのか。
と、いうのは要するに個人の鬱屈した気分や、組織的な硬直性というのは、ある意味社会的な仕組みの中で構築されていくものなので、枠組みを変えればいいのにという発想にいきつくはずだ。
しかし、そうならないのはいわゆる成功体験が邪魔して、それ以外の快楽の享受をしらないために思考の壁にぶちあたるのかもしれない。
では、どうしたらいいのか。
もともと教育が今ほど全員参加型でなかったときには、それぞれが生きる場において自らの立場を主張し、社会を形成していた。そこでは教科書的なネットワーク形成は至らず、各自のもつ資質によりネットワークの形成を図っていた。
人格の形成はその特異的なネットワークの中で醸成されるので、各自が特徴的であった。
しかし、今の時代の教科書的反応の単一化社会、あるいは検索ランキング単一指向性社会では、人間の形成においても似通った価値観の認識により人格が形成される傾向が強くなるのでどうしても単一的な指向性をもつことになる。
その指向性は誰もが同じことをせよっていうものだ。
このことが罠に陥る原因となるのだ。
というのは、同じ価値観を得る方法しか知らないのに、各自の価値観を形成せよなんてのは勝手過ぎる。
だって、そうでしょう。
個性ある価値観の形成をするための方法を与えないでおいていて、ただスローガンは同じことをするな。でも、本当は同
じことをしなさい。
結果は語るに足らず。
いわずもがなである。