アントニオ猪木をさがして~感想~
どうも!!流星仮面二世です!!
ということで先週の10月22日、映画「アントニオ猪木をさがして」を嫁と観てまいりました。
本当は公開後すぐに観に行く予定でしたが、急な用事が次から次へと入ってきては先延ばしになり、映画に行くまでに時間がかかってしまいました。
そんなこともあり、この映画に対するいろいろな前評判が耳に入ってきてしまっては、こんなに賛否両論で・・・大丈夫なのかな!?と、心配になってしまうこともありました。でも実際に観てみるとよくできており、ボクら夫婦にとっては楽しむことができた映画でした。
ということで、ちょっと感想・・・心に残ったところを述べさせていただきたいと思います。
まずは映画の序盤。ここではブラジルに猪木の軌跡を探すということで、その当時に実際に猪木と一緒に働いていた人や、となりに住んでいた仲間が登場。まだプロレスと出会う前の猪木が働き生活していたところを紹介し、猪木との思い出が語られるというものでした。
プロレスと出会う前の猪木は、こんな風景の、こういう場所で仕事をして過ごしていたんだ。この視点から、この場所を眺めていたんだな・・・日本を離れ急に変わった生活の中で、どんなことを思いながら日々を過ごしていたのかな・・・そう思うと、もうそれだけで胸がいっぱいになりました。猪木がときおり語っていた「ブラジルに行かなければ力道山と会うこともなかった」という言葉もフワッと頭を過り、ここがプロレスラー、アントニオ猪木の原点なんだなと感激しました。叶うなら現地に行って、この風景を直接この目で見てみたいと思いました。
そして、原悦生さんです。猪木の戦いの写真が映し出され、そして原さんが映画に登場してきたときの胸の高鳴りといったらありませんでした。生涯を猪木にかけ、数々のシーンをカメラに収めてきた原さん。そんな原さんが常人では知ることのできない猪木との思い出を語る・・・まさに今回のこの映画で、最も「アントニオ猪木をさがして」の題名にふさわしいシーンだったのではないか?と思いました。
最後に、もう言うまでもないと思います。最も心に響いたシーン。「あ~そうだったよなぁ」とジーンとなったのが、あの80年代の子供のドラマでした。
本当に同じでした。ああやってノートに書いて・・・ボクはイラストも入れてましたけど、もう、だいたい一緒です。で、教室の後ろや下校の帰り際に幼馴染みと「今夜のプロレスはさ、猪木がさ」って、しゃべって・・・毎週毎週、そうやって過ごしてきました。これはボクだけじゃなかったはずです。どれほどの人数の同年代のプロレスファンが、これと同じことをしていただろうか・・・嫁にも「これ、お父さんまんまじゃん」と突っ込まれ、うれしなつかしで涙目になりましたねぇ~。
ちなみに、プロレスが好きではないのに毎週テレビで見せられて覚えてしまったというお姉ちゃんのコブラツイスト。足のフックは床に着いていましたが腕の使い方は抜群。やけにうまかったところを見ると、まさにホーガンのそれではなかったか?と思いました。門前の小僧、習わぬ経を読む。「腕を組んでますね。これでいいわけですよ!!」という小鉄さんの声も知らず知らずのうちにお姉ちゃんに届いていたのかもしれませんね~。
と、ボクはこのあたりが印象に残ったのですが、嫁の感想はまたひと味ちがうものでした。
まず映画が終って嫁の口から開口一番出た言葉が「よかった~。アタシ、もう1回観たい」でした。嫁は昔のプロレス映像に懐かしさを感じ、映画の猪木を通して時代が見えてよかったと。そしてドラマシーンはどれもよく、すべてに感動したと。人は猪木を知ることにより「力」を得られる。これが心に響いたそうで、自分も力を得られた。ヤル気でたー!!また観たい!!と、この映画を大絶賛していました。
そして、さらに嫁の映画に対する感想を聞いて「なるほど。そういうことなんだなぁ・・・」と、思うところがありました。
そう世では、この映画に対する評価が別れています。その内容は、正直なところ絶賛より酷評の方が多いのが現状です。確かに、どのシーンとは言いませんが、ボクも観ていて理解できない、腑に落ちないところが何点かありました。知ってのとおり、ボクは昭和のプロレスファン。その象徴こそアントニオ猪木でした。なので・・・そんな意味不明なシーンを入れるなら、本来出演するべきはずである猪木のゆかりの人物へのインタビューや、あの徹子の部屋のシーンのようにプロレス以外で猪木がテレビに出ていたシーンをひとつでも多く映画に取り入れてくれたらよかったのに・・・という「こうしてほしかった」と思うところがあったのです。
でも、嫁はちがいます。たとえば嫁は猪木とアリが戦うに至った経緯や、その試合のルールのこと、のちの世論の評価などは一切知りません。ペールワン戦なんか見たこともないし、ストロング小林戦が世の中にどんな影響を与えたのか?なぜ藤原が雪の札幌襲撃事件を起こしたのか?どんな理由で猪木問答が生まれたのか?そういったことは、まったく知らないのです。
ただ、毎週金曜8時にブラウン管に映し出され、ジェットシン、ハンセン、ホーガン、アンドレ、長州の維新軍と戦うアントニオ猪木の姿は知っていたのです。
そう、仕事から帰ってきてテレビをつけ晩酌始めるお父さん。お勝手仕事終わって茶の間で一息するお母さん。力道山の頃からプロレス見ているおじいちゃん、おばあちゃんも。そして・・・そんなお父さん、お母さんや、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に猪木を見ていた子供が、当時はたっくさん、いたのです。
その猪木は、誰が見てもわかりました。アントンハイセルやクーデターや興行戦争のことなんてわかりません。でも、テメェーコノヤロー!!と拳を固める怒りの表情や、手を叩きみんなにアピールする姿。延髄斬り、コブラツイスト、卍固め、そしてダーッ!!は、みーんな、わかりました。そして、そんな猪木を見るとみーんな、うれしかったんです。そうやって・・・誰もがアントニオ猪木を見て育ったんです。そうやって大人になった人が、たっくさん、いたのです。
あの頃、猪木を見ていたのは大のプロレス好きや猪木マニア、猪木信者だけではない。日本中のみんなが、この姿を見て歓喜していたのだ
猪木のプロレスはみんなわかった。だから今回の映画も・・・誰が見てもわかるようにしなければならなかった。だからああいう作り方だったのではないのかな・・・と、ボクはそう思ったのです。
アントニオ猪木の引退試合。あのとき、猪木の入場時に古舘さんは
「人によっては20代の猪木を、世代によっては、熟年の猪木を思い起こしているのでしょうか!?」
と実況しました。
まさしく、この言葉こそ今回の映画のテーマだったのではないかなと思います。そう、アントニオ猪木はひとりひとりの心の中にいるんです。だから探すことに意味があるんです。だからまた・・・探しに行けることを喜びたいと思います。
テキサスブロンコ~テリー・ファンク追悼~
テリー・ファンク グラフティ
テリーといえばテキサス州アマリロが真っ先に思いつくが、実はテリーは1944年6月30日、アメリカのインディアナ州ハモンド出身。アマリロには3歳の頃に移り住んだようだ。画像は8歳の頃のテリー。手に持った大量の鴨を自慢げに見せる表情がかわいらしい
こちらは中学生時代のテリー。父シニアからレスリングの手ほどきも受けていたが、この頃は野球に熱中していたという。スポーツが大好きな少年だった
大学時代のアメフト姿のテリー。やんちゃな顔つきだが、その腕前はオール・テキサスのラインマンに選出されるほど。試合の度に新聞記事を飾ることも多くテキサスでの知名度は大変高かったという。スタン・ハンセンの自伝によれば当時テリーに非常に似ていたハンセンが街で間違えられサインを求められることが多々あったそうだ
1965年12月28日、テリーは21歳のときにスプートニク・モンローを相手にプロレスのデビュー戦を行ったとある。画像はデビューして間もない頃。驚くべきはこの首の太さ・・・ただ者ではなかったことがよくわかる
1970年3月、NWAウェスタンステーツ・ヘビー級王座に輝く。父シニアが初代王者であり自身初となったこのシングルタイトルにテリーは大変な思い入れがあったそうだ。初栄冠から1975年4月まで通算12回王座に就いた
ホームのアマリロでは兄ドリーと共に父シニアとタッグで出陣することも多かったという。また1972年12月18日にはニューヨークのMSGにも親子で登場。ビクター・リベラ、エル・オリンピコ組を撃破している
日本へは1970年6月に初来日。当時NWA世界ヘビー級王者だった兄ドリーと共に来日した。「ドリーのポリスマンとして日本へ行ってこい」というシニアの密命を受けての来日でもあった
その来日での日本で最初の試合は7月27日。大田区体育館で兄ドリーと組み猪木、吉村組との対戦だった。この来日第1戦を2-1の勝利で飾ると翌7月28日は横浜文化体育館でアントニオ猪木とのシングル対決が実現。8月2日には馬場、猪木vsファンクスが行われるが残念ながらいずれも敗れている
2度目の来日となった1971年。この年の12月7日、札幌中島スポーツセンターにて馬場、猪木のBI砲を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。末期の日本プロレスでBI砲の最後の対戦相手となった
日本プロレス崩壊後、1972年10月からは全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加。以降、常連外国人選手にしてブッカーも勤め長きに渡り全日本プロレスに大きく貢献した。画像は旗揚げレセプションでのテリー。らしい着こなしである
1973年2月10日にジョニー・バレンタインを破りNWA世界王座の登竜門と呼ばれるミズーリ州ヘビー級王座を獲得。まさに「ミズーリを制するものは世界を制す」の言葉どおり、これが世界への第一歩となった
そして1975年12月10日。フロリダ州マイアミビーチ・コンベンション・ホールでジャック・ブリスコをスモールパッケージ・ホールドに取り、ついにNWA世界ヘビー級王座を獲得。プロレス史上、初の兄弟での世界王者となった
王者になりNWA世界ヘビー級王座を肩に下げるテリー。テリーのNWAベルトは地球儀の部分がへこみサイドの黒いレリーフがゴールド、つまりプレートと同色となっていた。いかにもテリー・ファンクというベルトだった
NWA王者時代はジャック・ブリスコ、パット・オコーナー、ダスティ・ローデス、ディック・スレーター、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ロッキー・ジョンソン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・ザ・ブルーザー、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリック、ジャンボ鶴田ら、そうそうたるメンバーを相手に防衛を続け1977年2月6日、カナダのメイプルリーフ・ガーデンでハーリー・レイスに敗れるまで1年2ヶ月君臨した。画像は1976年6月25日、テキサス州のヒューストン・コロシアムでのロッキー・ジョンソンとの防衛戦。試合は激闘の末、2-1でテリーが勝利している。同日、日本では猪木・アリ戦(日本時間26日)が行われ、NWA、AWA、WWWFは全米各地でビッグマッチを開催。格闘技オリンピックと呼ばれた日であった
集結だ!!流星仮面二世
今回の観戦。まずノアですが、ボクが最後にノアを観戦したのが2017年6月17日に茨城県土浦市の霞ケ浦文化体育館で行われましたプロレスリング・ノアの「Navig. with Emerald Spirits 2017」なので、実に6年3ヶ月ぶりとなります(輝けエメラルド)
そして後楽園ホールは、あの平成最後のプロレス観戦。2019年4月26日、「DRADITION 2019 NEVER ENDING DREAM TOUR」以来、4年5ヶ月ぶりになります(おれたちの8.8 ~平成最後に開花した昭和の夢~)
ということで、まさに「久々」のラッシュとなりましたが、今回ご一緒するメンツも約7年ぶりに勢揃いする面々です。まずは双子の息子たち「M.Tマシーンズ」がプロレス離れしてしまい、ちょっぴりさみしい幼馴染みの流星仮面2号。そして筋肉の北太平洋海流、和製スティーブ・マックイーンとよばれるMさん。そしてそして昭和プロレス最後の重鎮。永遠のまだ見ぬ強豪ことSさんです。
そう、このメンバーこそ2014年3月末の開運なんでも鑑定団の撮影日に2号の声掛けで応援に来ていだだいて以来のお付き合いのマスクド・スーパースターズの面々なのです(出撃だ!!流星仮面二世!! )
みなさんとはこのコロナ禍で会うことがずっとできていませんでしたが、Mさんのお声かけによりオンラインでのプロレス飲み会に参加させていただきました(コロナ禍をブッ飛ばせ~Zoomプロレスで、いこう!!~)
その後も定期的にZoomに参加させていただき、おかげさまでコロナ禍においても楽しくプロレス話をして過ごさせていただいておりました。そんなメンツが、今回は世の中の流れもコロナ禍前に戻ってきているということでプロレス観戦で集結しようと、顔を合わすこととなったのです。
ということで集合場所とした後楽園ホールの当日券売り場で待ち合わせ。はやる気持ちから待ち合わせの40分も前に着いてしまったボクは水分補給しながら後楽園ホール周辺をゆっくりお散歩。周辺を眺めていました。こうして改めて見る水道橋の後楽園ホール。東京ドームという響きもわるくないですが、やっぱり・・・後楽園ホールという言葉がいいですねぇ~。これからプロレス観るんだ。観に来たんだよ~という空気がどんどん体に入ってまいります。最高でありました。
やがて時間となるとSさんが到着。お久しぶりですと挨拶をしているとMさんもまもなく登場。そして幼馴染みの2号と続き、次々と対面していき挨拶を交わしました。こうしていよいよ場内へと足を進めることとなりました。
存在感のある大会ポスターを横目に会場へと入ります