1/6 のおはクラ放送後の呟き | マーシー山本教授のゆるゆるクラシック日記

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今回はシューベルト が18歳の時作曲された「魔王」の出版までのエピソードをお話しします。


1816年4月、『魔王』の楽譜はゲーテのもとに送られました。

ゲーテの音楽顧問的作曲家のカール・フリードリヒ・ツェルターはゲーテにシューベルト の作品をあまり積極的に紹介しませんでした。

ゲーテ自身もシューベルトの作品はあまり興味を示さず、別の作曲家のヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトの書いた「魔王」の方を気に入っていたようです。

 

翌年の1817年にシューベルト の友人のシュパウンが楽譜出版社の「ブライトコプフ」に楽譜を送り出版のお願いをしたのですが、相手にされませんでした。

そして、なんと、出版社は出版断りの返事を友人のシュパウンではなくこの時ウィーンで活躍していた同性のフランツ・アントン・シューベルト(魔王を作曲したのはフランツ・ペーター・シューベルト )に宛てに楽譜と一緒に誤送してしまいました。

送られた楽譜を見たフランツ・アントン・シューベルト は「私の名前を使ってこんな駄作を出版しようした奴はけしからん」と激怒したというエピソードが残っています。

 

そして、その後、自費出版するにはシューベルト は金銭面で苦しいことを知っていた友人たちは、100部限定の内輪向けの楽譜集の製作を計画します。

そして、『魔王』を作品番号1、『糸をつむぐグレートヒェン』を作品番号2として完成させます。魔王の初演は1821年3月7日、ケルントナートーア劇場で行われたチャリティーコンサートでおこなわれ大成功に終わりました。

 

その後、間もない3月21日に正式に出版されました。そして、あっという間に600部が売れました。そんなヒット曲を出したシューベルト に、あまり興味を示さなかったゲーテは晩年になり自分自身がこの曲を低い評価を下したことを悔いたという事です。

 

今回の動画

https://youtu.be/DmFyv0AVxWQ